2004年3月30日号

甘棠第 Komtong Hall その1

 2002年10月28日の新聞に甘棠第(コムトン・ホール)が取り壊される記事が出ていた。エドワード朝の赤レンガを基調にバルコニーの柱や窓の周りを御影石でアクセントをつけたエレガントな建物だ。 コロニアルスタイルのこのタイプの建物としは甘棠第の他にあと二つを残すのみとなってしまった。 一つは香港大学本館、もう一つは最高裁判所(Court of Final Appeal)。 個人の邸宅としては最後のものということになる。 歴史的な建物の魅力もさることながらその主の人となりがまた興味をそそる。


すっぽりと足場とネットで覆われた甘棠第。強烈要求保留衛城道甘棠第の幟が見える。

 せめて最後の姿を一目と思い数日後に訪れると建物は竹のやぐらとネットですっぽり覆われ、取り壊し工事が今にも始まるところだった。 同じような思いらしき人が何人か周りをうろうろしていた。 反対運動を起こしている人に名刺をもらったり、本格的なレンズ付きのカメラを抱えた男性と出会った。てっきり報道関係の人かと思ったが父上が甘棠第に住んでいたと言い、当時の建物の中で子供を抱いた女性の写真など何枚か見せてもらった。 「新聞で読みましたけど本当に残念ですね。」と言うと「本当に悲しい。だけど新聞に書いてあったことは全部本当ではなく、日本軍に接収されていたという事実は無く戦時中も父は住み続けていた。」 第2次大戦中日本軍がこの建物を使っている間、地下室で取調べを受けた千人以上の人が命を落とし今でも怨霊がただよっているという記事があったのだ。 後日の新聞で甘棠第を日本軍接収から守った銀の煙草入れの写真が載っていた。 甘棠の息子の一人が日本の商船会社の仲買人として働いていた時に皇室から渡されたもので菊の紋章が入っていた。 日本軍もこれにはさすがに手を出せなかったのだろう。 第2次大戦が終わるまでの4年間300人の親戚縁者とその使用人たちがが甘棠に助けを求め、甘棠第で過ごしたのだった。


菊の紋章入り煙草入れ

 香港島ミッドレベルは今でこそ高層アパート群のコンクリートジャングルと化してしまったが、20世紀初頭の大英帝国植民地華やかなりし頃はビクトリア湾を望む緑豊かな山の中腹はもっぱら白人専用の瀟洒なお屋敷街として使用人以外の中国人は締め出されていた。 そこへ初めての中国人として家を建てて住んだのが何甘棠氏(ホー・コムトン)。 中国人とは言っても甘棠はオランダ人の父と中国人の母の間に生まれた混血(ユーレシアン)だが中国人とみなされ、政庁から特別許可を得てこの地に邸宅を建てたのだった。 甘棠は純粋な白人でもなく中国人でもなくそれゆえにどちらの社会でも差別を受け苦労したそうだがジャーディン・マセソン社でキャリアを積みその後数々の事業に成功し一大財産をなしたのだった。 

なんでも奥さんが12人、子供の数は30人以上というから大家族が一同に住める家が必要だったのだろう。 今の世の中ではとんでもないことだが当時の中国の金持ちのライフスタイルとしてはそう驚くことでもなく第2夫人以下は第一夫人を敬い、第一夫人は大家族を取とりまとめ子供もまとめて育てる風習があった。 甘棠はまた相当な趣味人で越劇、漢方薬処方、風水、園芸などは玄人はだし。 自ら越劇を演じ多くの歌を披露したそうだ。 甘棠が単なる金持ちの趣味人と違うところは財産の多くを慈善事業に寄付し、また自ら設立、運営にも携わったことだろう。 時代のなせる業か昔の金持ちにはこうした太っ腹で破天荒な人が時々出現したものだ。 その甘棠が1914年当時のお金HK$30万を投じて本格的な英国式邸宅をミッドレベルの地に建て、植民地絶頂時の成功者として大家族とともに過ごした家は香港の歴史そのものといえよう。 1950年甘棠没後しばらくして、甘棠第は人手に渡り現在はモルモン教会が所有している。 見たところ手入れがよく保存状態は驚くほどいいのだが、何しろ90年近くたった建物ゆえ維持費も大変だし使いづらくもあり再開発することに決めたのだろう。

唯一足場が組まれていない壁。 
保存状態は驚くほどいい。
窓の上の飾りは三角刑と半円形のものが交互に配置されている。


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