目  次
【2月20日号】【2月17日号】【2月12日号】【2月3日号】
【1月31日号】【1月13日号】


バックナンバー目次

2月20日


「タイランド・ツアー 1」

次男が毎週日曜日に通うミニラグビーで昨年初めて行った海外遠征、ジャパン・ツアーが余りにも成功したので 勢いに乗って毎年行こうということになってしまった。 そしておだて上手な人たちにのせられて今シーズンも ツアー担当になってしまった。

実は昨年イースターのツアーから帰ってきてすぐ長男はニュージーランドの寄宿学校に行ってしまったのである が、これはひとえにこの香港フットボール・クラブ、ミニラグビーの会長さんの推薦のおかげ。 香港のインタ ーナショナル・スクールに子供を通わせるエクスパットたちは子供が生まれたら直ちに自分の母校に登録し14 歳になる年にイギリス、オーストラリア、ニュージーランド等の学校に送る人が多い。 現に私の周りの人たち も子供がその年齢に近づいてくると面接に行ったり着々と準備を進めるのを知っていたが、我が家の子供たち、 どうせセカンダリー・スクールを卒業したらどこかに出て行かなくてはならないので、それまでは手元に置くつ もりでいたのだった。 それに日本語もおぼつかないまま手放してしまったら御粗末ながらも今までの努力も水 の泡、きっときれいさっぱり忘れてしまうという危惧もあった。 さらに学費、寮費、年間6回の往復航空運賃 など我が家の家計ではとても賄えそうもない。

しかし、色々計画通り行かないのが人生。 1昨年の夏休みが終わり9月に学校に戻ってみると仲のよかった長 男の友達は本当にいなくなってしまっていた。 やがてイギリスの寄宿先からEメールが来たり休みで帰ってく る友達の話をきくにつれ長男はあせったようだ。 年が明けてラグビー仲間のケンゾーがニュージーランドに行 くや否や連日のようにEメールで「早く来いコール」。 なにしろ、彼の学校にはふかふかの芝生のラグビーピ ッチが6面もあって毎日ラグビーが出来る上、寮長先生は元オールブラックスのプレーヤーというのを聞いても う完全にイカレテしまった。 4月にはラグビーのシーズンが始まるのですぐ来い、と来る。

それからだ、「うちは貧乏だからだめなんだよねッ!」 「そんなだらけた子は恥ずかしくて外に出せないッ !」 などなど、散々もめた後、このまま勉強もろくにしないでテレビとのたれ死にさせるよりは寮で規律正し い生活の方がいいか、ということで結局行かせようということになり、この学校の校長先生の友人であるミニラ グビーの会長さんに紹介をお願いしに行ったのだ。 本人の履歴書 (子供の履歴書作成するのも初体験、なに せ売り込まなくてはならないのでありったけの賞を盛り込んで膨らますのに苦心した)と学校の成績書コピーを 渡すと早速先方にコンタクトして下さり、筆記試験も面接試験もすっ飛ばして4月末の2学期から入学が決まっ てしまった。 (こんなラッキーなことでいいのだろうか?日本の受験生の生活を一度させてみたい) それから 大急ぎで入学書類を整え、1年分の学生ビザを取得するためニュージーランド領事館指定のクリニックで健康診 断を受けさせたりと、本人が有頂天になっている間、親の方はしっちゃかめっちゃか。 いつか行きたいと思っ ていた国であるが息子に先を越されるなんて悔しーっ。

という訳で、前置きが長くなってしまったが我が家の息子二人はこのミニラグビーにかれこれ7ー8年お世話に なっているし、ここで思わぬ大きなご恩をうけてしまったので何等かの形で貢献したいところ。 以前から夫は 次男の年齢グループのコーチ、私は雑用などをしてはいたが、ツアーの手配なんかお安い御用とばかりまたして もしゃしゃり出ることになってしまったのだ。

さて、今回のツアーはもともとは旧正月にシンガポールという予定だったのがこれがうまくまとまらず、誰かが 偶然インターネットで見つけてきたバンコクのカセツァート大学で毎年行われているという国際ミニラグビー・ トーナメントに参加することにした。 ところが、Eメールで色々問い合わせてもなかなか返事が来ない。 やっ と来ても質問している事項のほんの一部しか回答がない。 こちらは試合の内容、ツアーの日程、予算等を把握 しないと参加者募集が出来ない。 思い余ってバンコクに滞在している人や出張に行く人たちに連絡してもらっ ても電話に出てくる人は何も把握していないようで分かり次第Eメールでお返事します、と埒が明かない。 香 港のビジネス・ペースとタイの大学のペースではかなりの差があることぐらいは察しが付くが、やんわりと、し かし、しつこく何度督促を入れてもブラックホールに吸い込まれるごとく進展が無い。 何しろ一人として相手 の人間を知らないし、どうなってるのか見当が付かない。 インターネットで情報を提供するなんて誰でも出来 るし、ひょとしてまったくの冗談だったりして.... それでもやっと返事があると100%の回答ではないがと ても丁寧でなんとなく誠実さを感じさせる。


つづく・・・・。





TOPに戻る


2月17日


「花」

 15年前香港に来て気づいたのだがバレンタインデーには花屋に若い男性の長蛇の列。 もちろん、女性から義理チョコなんていうのは存在しない。 この頃はあらかじめ予約している人が多いようで、予約済みの豪華な花束が店先に溢れている。 そして、幾分緊張気味な男の子たち恐らくHK$何千の花束をかかえてお目当ての女性の元へいそいそと向かう。 当地の生花は殆ど輸入ものなのでもともと高価なのだがこういう日は普段の3ー5倍になる。 香港の男性が見栄張りなのか、女性の力が強いのか、とにかくこの日に花束が職場(何故か職場)に届かなけ れば致命的だからフラレたくない男性は大出費をするのである。 その他、誕生日やセクレタリー・デーにも花束は必須。 セクレタリー・デーなどは職場が花束だらけでスターの楽屋並みになる。 なかには奥さんの誕生日にわざわざ職場に豪華な花束を送る男性もいてこれは見栄としか思えない。

 子供たちが小さい頃は幼稚園や小学校で「ハッピー・バレンタイン」と書いた手作りのカードをもらったものだがいつのまにやら相手が変わってしまっている。 次男が通う学校ではバレンタイン・デーが近づくと夜体育館でディスコ・パーティーがあったり値段が釣り上がる前にバラの花を販売して思い思いの相手にプレゼント。長男は毎年誰かから貰って来ていたが、昨秋進学した次男も今年ちゃんと貰ってきてこのところ毎日星の王子様のように毎日1りんのバラのお水を変えたり霧を吹きかけたりほほえましい。

 今年の春節は2月16日から18日。 この時期中国では2週間ぐらい工場も閉め民族大移動、お土産を山のように担いでそれぞれの故郷に向かう。 香港の人たちも大陸の親戚を訪ねたりするが、カナダやオーストラリアの親戚訪問組み、あるいは東南アジアのリゾート地で休暇などそれぞれ。 我が家も御年始に来るという人たちを避けるためリゾート組みになっていたこともあるが、馬鹿高いお正月割増料金にも愛想が尽き、どこへ行っても香港チャイニーズだらけ、そして「御年始」と言っていた人たちも言わなくなったからひたすら自宅で骨休め。

 私の勤務先では毎年派手なクリスマス・パーティーをするのだが、今年は景気が悪いとあってとりやめになってしまった。しかし、旧正月を控えた新年会はしない訳にはいかない。 当地の宴会は必ず麻雀で始まる。 結婚式はもちろんのこと、赤ちゃんの生後1ヶ月のお披露目会も同様。 そしてこの頃ではカラオケも加わって騒々しいことこの上ない。 宴会のある日は会社も4時頃締めて麻雀に直行する人、美容院にいってプロのヘヤーにしてパーティー用の衣装に着替える人、年末の買い物に出かける人、あるいは仕事を続ける人等。 (わたし?麻雀きらい、大宴会きらい、年末の雑踏での買い物きらい、とあっては居残って仕事しかない、が、実は旧正月直後に訪問を予定している長男の学校にEメールを送ったりもしていたのだ。)

 エライさんの挨拶も終わって食事が始まっている筈の8時頃宴会場の中華料理店に到着すると、がっかり、スピーチはこれから。 乾杯の後現場のおじさん達の表彰式が延々と続き、くじ引き大会が始まり、最初の料理が出てきたのは九時を過ぎていた。 なにしろ、この日は不動産管理部門の現場スタッフを労う会とあって出席者800名。 夜勤の人たちには翌日の昼間に同様の席が設けられている。 最初出席した時余りの騒音とたばこの煙に懲りてその後なんだかんだと口実を造っては欠席していたのだが、あまりにも義理を欠くので数年ぶりに出席したのだ。
席が盛り上がってきたところで自分が担当している人たちのところに挨拶に行くと皆とても喜んでくれて今まで悪いことしたなと急に反省してしまった。 なかでも表彰と昇進をダブルで受けた人は特に喜んでくれて嬉しかった。 この人たちの殆どは英語をしゃべらないし私の広東語も上達しないしで日頃コミュニケーションの難しさを感じているのだがそれを補ってくれている同僚に感謝しなければならない。(クリスマスやお正月にはどうも殊勝な気持ちになってしまう。) 結局宴会料理が半分ほど出た10時半頃こっそり退席。 終わったのは12時近かったそうだ。

 それから数日後、かの表彰氏からスーパーのプラスチックバッグに無造作に包まれた球根付き水仙が一抱え届いた。 今香港の街はどこもお正月の花でいっぱい。 豪華な桃の木、赤や黄の菊、芍薬、小さなみかんがいっぱい付いた鉢植え等お正月というよりやはり春節と言う言葉がぴったり。 ビクトリア・パークは花市となり大晦日の夜遅くまで賑わう。 水仙も縁起を担ぐ大事なお正月の花、今我が家で愛らしい花を次々と咲かせ家中にほのかに甘い香りを漂わせてくれている。 ありがとう管さん。





TOPに戻る


2月12日


「広州のクリスマス ー その4」

 朝食が豪華だったので午前中の観光を終えてもあまり空腹は感じなかったが昼食はこのところ夫が定宿にしているガーデン・ホテル(花園飯店)であっさりした日本食をとることにした。 クリスマス・イヴの24日は自宅で焼いた栗を詰めたターキー・ディナー、25日はホワイト・スワン(白天鵞飯店)でキャンドル・ライトの中国料理、とこってりした食事が続いたので少し休憩したいところ。

 広州の大きなホテルはホテル本来の施設と客室に加え、サービス・アパートメントとオフィス・タワーを併設している所が多い。 南越博物館隣のチャイナ・ホテル(中国飯店)には夫が勤務する会社が先ごろまでオフィスと長滞在者向けの宿舎として使っていたサービス・アパートメント、そして入れ替わり立ち代わりやってくる出張者用にホテルの部屋と3タイプ常時確保しており、前回訪れた時に一回り見物させてもらった。ガーデン・ホテルも同様でこちらのサービス・アパートメントには10年ほど前香港から転勤になった日本人の友人家族が一時住んでいて時々香港に食料等の買い出しに来ていたことを思い出す。 ガーデン・ホテルのオフィスビルには私が働いている会社も一時広州オフィスを構えていたこともあり、同僚を訪ねて行ったこともあった。 こうした傾向は最近のように立派さらにもっと昔、夫が中国に出入りし始めた24ー5年前はホテルも不足していたから交易会中は見ず知らずの人と相部屋にされられるのが普通だったし、冷房も普及していなかったから書類は汗でぐちゃぐちゃになるわ、国際電話はなかなか繋がらない、テレックスは順番待ちと色々苦労したらしい。 ちなみに香港でホテルのことを 「酒店」というが中国国内では「飯店」とか「賓館」という。

 で、そのガーデン・ホテルの日本レストランで食事していると、おっ、広州駐在に来ている夫の若い同僚が日本からクリスマスで休暇に来たというガールフレンドと入ってきたではないか。 おぬしもやるのう。 休みの日の行動パターンは似たようなものなんだろう。 見つかったのが分かれば照れるだろうから気が付いていない振りをしていたのだが、あちらさんはおしゃべりに夢中なのか知らん振りしているのか最後まで気が付かないで先にお勘定を済ませて出て行ってしまった。後でその話をしたら本当に気が付かなかったそうで「分かってたらご馳走してもらったのに、残念だったなあ」とのたまわったそうな。現代っ子。

 食後は番寓市にある2泊目のホテル、ロータス・ヒル(蓮花山)に向かい珠江を南に下る。 途中、豪華すぎると使用禁止にされてしまった番寓市の新市庁舎を通り過ぎる。この総御影石貼り豪華庁舎は広々とした芝生の庭園に囲まれてすっかり完成しているというのになんと北京中央より贅沢過ぎるとクレームがつき使用許可が降りないのだそうだ。 沿岸都市部に富が偏在し政治の中心北京が一地方都市に経済的に追い越されてしまった事に、いたくプライドを傷つけられて面子を重んじる北京のお役人達が大人げない真似をしているのだ、と私は思ったのだが。

 広州市を出て広い道路に出た頃、やっぱりあちこちの車が警笛を鳴らしはじめた。警笛規制は市内だけなのだ。珠江にかかる立派な橋を渡る頃、田園風景が広がり始め、両親が「農村の方はまだ貧しそうだねえ。」ともらす。テレビで放映された「大地の子」等を思い出したのだろう。確かに非常に豊かになった今の日本の農村に比べるべくもないが、広州は温暖な土地で農作物にも恵まれ「食は広州にあり」と言われる所以なのだ。 貧しい農村というのはもっと北方や内陸部で昔から飢饉になると農民は食べ物を求めて広東省など食に恵まれた地方に流れてきたものだ。今流れてくるのは沿岸都市により良い仕事を求めてやってくる人たちで広州で広東語が通じないのはこの辺に原因があるようだ。

 やがて車はリゾートホテル風の立派な車寄せのあるロータス・ヒルのホテルに到着。3階まで吹き抜けのロビーは中国人が大好きな総大理石貼り。 田舎とは言え、グリーンとアイボリーを基調にしたここの内装はほどほどに趣味もよくちょっとほっとする。 建物のむこうにはゴルフ・コースが広がり夫は広州滞在が週末にかかる時に利用しているようだ。 香港のゴルフ会員権はどこもとんでもない値段になってしまったので、コースに出たい人は今や中国までやって来るのだ。それでも週末は会員と一緒に来た人しかプレイできない。 もちろん我が家は中国でも買えないのだが幸運なことに子供のラグビーで出入りしているうちに香港のあるスポーツクラブに入会出来、ここのゴルフクラブも利用出来るというおまけまで付いてきたのだ。 さて、夫はもちろん早速コースに出たいところだろうがゴルフを知らない年寄りと子供を放っといて行ってしまうのもなんなので池に向かって打ち込む打ちっぱなしに全員を連れて行きゴルフ指南。打ちっ放しもしたことがないという父は婿殿に教えてもらってなんだか楽しそう。 子供たちは何回か練習したことがあり何故か次男などは自分の子供用セットまで持っているのである。親ばか!しかし、筋は長男の方がいいのかあっという間に上達しスコーンと遠くまでまっすぐ伸びるようになった。 男兄弟のライバル心は強い。重量も容量も丁度倍違うのに次男は俄然悔しがり、せめて兄のレベルになるまではと手にマメをこさえて翌日もこれ一筋。帰る頃にはこのこもまずます上達してやっと機嫌を取り直した。コーチの夫はあちこちに気を遣ってカワイソ。

 ゴルフ場のはずれにはプールやテニスコート、卓球場、コーヒーショップ、スポーツショップもあったが季節はずれのせいか全部閉まっていた。庭付きのしゃれた住宅もずらっと並んでいたがどうも人が住んでいる気配が無い。ちょっと前の香港の不動産ブームの頃、香港の物件は高くなり過ぎたので今度は中国国内の不動産をと買い漁る動きがあって、ここの物件もその頃に完成したのだろうか。 バブル経済がそう何時までも続くはずもなく、週末のゴルフ場は賑わっても残りの施設はこのまま荒れるに任せるのだろうか。

 このクリスマス頃が広州や香港では一年中で一番お天気も良く理想的な気候なのだが、広々としたゴルフ場を散歩していて気になったのがスモッグ。香港でもこの頃ようやく空気汚染の問題を取り上げるようになったが大通りでバス等を待っていると目が痛くて開けていられないほど。以前はこの時期が一年中で一番乾燥していて空気が清んだ状態になるのだが今年はどうだろう。 ビクトリア湾からピークにかけては連日どんよりとした灰色の厚いスモッグにすっぽりと覆われてしまっている。 もちろん車の排気ガスなどに大いに責任があるのだが半分ほどはこの中国大陸から風に乗って運ばれてくるのだ。特に冬の間は風向きの勢いに乗ってひどくなったようだ。

 翌日香港への帰路は番寓から九龍まで珠江を下るホーバークラフト。 ホテルのマイクロバスで船着き場へ向かう途中に見かけたへどろの川、日本もこういう過程を経てきたのだが中国はなにせ規模が大きい、近頃は相当の内陸部でも大気汚染が進んで日本まで流れているとか。 あっという間に広がってしまった工業化と消費文化を止めることはもう無理だけどその裏側の対策を早急になんとかしないと川崎病、四日市病、水俣病の繰り返しになりかねない。しかももっと大きなスケールで。

 九龍行きの船付き場はおそろしく古い建物で哀愁いっぱいのトタン屋根の下を行列して乗船。 当然のように満席でしかも全席指定の筈なのにオーバーブッキングのため席にあぶれた人たちが乗務員に掛け合っている。乗務員の方も慌てた様子も無く(しょちゅうこういうことあるんでしょう)どこからか折り畳みの椅子を持ってきてこれに座れと渡す。本当は全員シートベルトしなくちゃいけないのに。。。

 例のごとく中国の河は川幅が広くて大量の土砂を含んでいるため濁っている。河なのか海なのか分からないうちに珠江デルタに出てしまいやがて香港新空港に繋がるチンマー・ブリッジの下をくぐりタイコクチョイの埠頭に着いてしまった。 途中林則徐が大量の阿片を海に投げ込んで阿片戦争の口火を切ることになった舞台の虎門も通ったりして大人は中国の歴史に思いを馳せながらそれぞれ今回の旅に名残を惜しんでいたのだが、バカ息子達は終始船内のテレビでコンピューター・アニメのカンフーものに熱中。 中国で過ごしたクリスマスの旅、彼らにはどういう思い出が残っただろうか。 長男 ー 食べ物、次男 ー ゴルフ 、だけじゃないといいんだけど。





TOPに戻る


2月3日


「広州のクリスマス その3」

あこがれのホワイト・スワン・ホテルの豪華なスイート・ルームで快適な1泊目を過ごし、朝食をとりに降り たラウンジは珠江に望み高い天井までガラス張りで朝日がいっぱい差し込んでいる。食事もおいしいし、全員文 句無くシ・ア・ワ・セ。 ビュフェ形式とはいえ長男はフルコースを3回お代わり。人間離れした食欲、全身胃 袋男。

チェック・アウトを済ませ、さて観光に出発。昨日の運転手さんが同じ車で迎えに来てくれている。ありがた い。タクシーはボロで汚いし二台に分乗するのも不便だから。まず、越秀公園にある中山記念堂に行ったが補修 工事のため閉館していた。仕方がない。 でもメンテナンスを真面目にするのは大いに結構。 途中で通りかかっ た果物屋さんに大量のザボンが黄色と紅の縞の包み紙に手毬のようにくるまれてぶら下がっており、これに目が 無い次男が買ってくれとせがむ。2個で10元。 越秀公園の北の外れにある広州博物館に向かう。 珠江を底辺 にした三角形状にかつて旧広州市の城壁があり、その頂点にある見張り塔だったのがこの広州博物館の建物。 確かに少し高台になっており坂のすぐ下には非常に昔風の競技場スタンドが見える。 そして珠江沿い西端の城 壁の外にへばり付いているのが外国人居留区の沙面。昔は倭寇を始め南からの外敵は珠江から攻め込んで来た のでこの高台の見張りは大事だった。ここから東西に万里の長城のような要塞壁も残っている。この広州博物館 は最近改装されたようでなかなか良く出来ており、広州の歴史が良く分かるようになっている。

歴史づいたところで次は南越博物館。ここは前にも来たことがあるがモダンでなかなか立派な建物。入り口の横 に小さな切符売場があるが中に人がいない。並んでいる人に聞くと少し待てばよいとのこと。入場制限でもして いるのかと思いきや、切符売りの人がお弁当を買いに行っていたためだった。と、いうことは、お弁当を食べな がら販売作業をするんでしょうね。 チャイナ・ホテル隣接の土地を開発するため基礎工事を始めたらなんと紀元前の南越王朝の墓が出て工事の人たちはさぞびっくりしたことでしょう。 でも、うれしいことに工事は中 止、盛り土を丁寧に掘り起こし、王様用の墓とその両脇に、后・側室・子供用、家来や動物の墓があり、中まで 入って見学出来るし、所々日本語の説明もある。お仕えする主が亡くなると殉死するのが当然だった遠い時代の 暮らし。生き残って新しい権力者のもとで苦労するよりよかったのだろうか。 王家の家族として優美な暮らし を送ったであろうお后のボロボロになった骨が陳列されているかと思うと、広い館内に数多く展示されている金 の印鑑や翡翠の装飾品等は今も変わらぬ美しさを見せている。 お墓の入り口の盛り土の上には伐採を免れたひ ときわ立派なバンヤン・ツリーがあったりして ゆったりとした造りだが疲れて休憩する場所までは用意出来な かったようだ。 その割に、出口に行くには売店を通って行かなくてはならないようになっていて日本語の上手 な売り子さんが可愛い子供用のチャイナドレスを持ってきて次男に買ってやれと言う。 次男はというと一瞬ポ カンとした後、ムッとして ”I'm NOT a girl!"とスタスタと退場。 この頃の子は男の子も女の子も同じような 服装だし、この子は長髪に加えて母親に似て色白で可愛い顔立ち(?)のためよく間違われる。ちょっと着せて みたい気がしないでもないが、余計な物買わされないで済んでよかった。




TOPに戻る


1月31日


「広州のクリスマス その2」

 広州駅では夫の勤務先の広州事務所の運転手さんが8人乗りのファミリーカーで出迎えてくれた。広東語で挨拶すると通じないのか北京語で返事が返ってくる。以前は夫も広東語で苦労することもあったらしいがこの数年奨励されてきた北京語が広東省でも広く使われ今では殆どで問題無い。この運転手さん清潔できちんとした服装なのだが、寒くもないのにワイシャツの襟からT−シャツが覗いているところが大陸の人らしい。

 前回は3年ほど前のイースターに来たのだがその時の街の音というのが中国の他のどの都市でも同じ乾いてちゃちなビーッビーッという独特な車の警笛音。夫が広州の車の中からかけてくる携帯電話にも長いことこのバックグラウンドが流れていたが、それがピタッと無くなって驚くほど静かなのだ。 実は1回警笛を鳴らすと200元の罰金が即科せられることになったのだ。 いや、たいしたもんです。成都や昆明でも経験したのだが中国の人が車を運転するとそこどけそこどけとばかりにやたらに警笛を鳴らす。日本でも車社会のはしりの頃はそうだったような気がするし、香港でもまだ多少その傾向が残っているが、特にベンツやBMWの類に乗ると優越感に浸るのか対向車とすれ違う時、追い越し時、歩行者が目障りな時などはその傾向が著しい。しかし、10回ぐらい罰金を食らうと普通の労働者の月給がとんでしまうので効果抜群。

 しかし、運転のマナーはひどい。譲り合う精神なんかでやってたら馬鹿を見るのか、とにかく皆我勝ちに突進するものだからすぐ渋滞や接触事故を起こす。高速に乗るまでの短い距離で接触事故を少なくても3件目撃。立体交差の所も結構あるのだが大きな交差点にある警官が立って交通整理をするコンクリートの台は車がガンガン当たっていくのでボロボロ。おまわりさんも命懸けだなあ。私たちが乗せてもらった車の運転手さんは夫が広州に滞在中は運転手兼ボディガードをつとめている。口数が少なくおとなしい人なのだが、いったん車を当てられそうになると夫なんかは「もうええやん」と思うぐらいものすごい剣幕でけんかするらしい。金曜日の夕方のせいかすごい交通量。それでも最近はシンガポールのように車の番号により市内への乗り入れを偶数日、奇数日で規制しているらしく時々うっかり乗り込んできたドライバーが警官に止められていた。車はやっと高速に入り宿泊先の沙面に向かう。この高速、10年ほど前に開かれた国体の時にオープンしたのだが名前が「人民路」と素っ気ない。一体中国全体でどれほどの人民路や開放なんとか路があるのだろう。もともとその土地に馴染んだ固有名詞があったはずなのだが早く元に戻してもらいたいものだ。


来る度に街を走る車が立派になっているようだ。 その昔香港のタクシーは「秋田国体」なんてステッカーが貼ってあったりして日本の中古車が多かったのだが、その中古車がもっと古くなると香港の新界に、そしてさらに深セン、広州と移動したものだが今は新車が殆ど。それでもメンテナンスが良くないのか最近では安全のために七年経った車輌は強制的に廃車にさせられるそうだ。中国の他の都市で大活躍している庶民の足、自転車に替わって広州ではバイクが幅を利かせており経済的豊かさを感じさせる。 確かに渋滞した道路では小回りの利くバイクは実用的だし若者に人気がある。道端のあちこちに無許可の白タクならぬ白バイクのお兄さんが固まってお客さんを待っている。

 途中広州事務所のあるビルの前で止まり運転手さん、若い中国人スタッフになにやら書類を渡している。この数年中国沿岸の大都市に職を求めて沢山の人が集まっているのだがバブル経済が陰りはじめ今は優秀な人材を集めやすくなったらしい。 この若者も医学部の出身でみどころがあるのだそうだ。

 この10年ほどの高度経済成長に押されて建設ラッシュだったビルがどんどん完成しておりその立派さには目を見張る。一方沙面に近づくにつれ道路の両側に並ぶ古いコロニアル調の建物が荒れるに任せているのが残念。 バルコニーの造り、窓の周りや屋根近くの壁などの装飾がみんなそれぞれ少しずつ個性があって違うだが様式や大きさが統一されていて往時の美しさがうかがえる。シンガポールのタンジョンパガール(というような名前だったと思うけど、あれは感動ものだったなあ)ほど徹底的に復興しないまでも本当に崩れ去る前に何とかしてほしい。14年前に初めて行った時の沙面がまさにそういう状態だったのだが、その後建物の外側だけは修理して塗り直され前回行った時にほっとしたものだ。それでも建物の中は革命のドサクサでいろいろな人がどっとなだれ込んだままスラムと化し相当荒れている様子。広州にはいつも短い滞在しかしていないので歩いた所は限られているが私はこの沙面が一番好きでここに来るとほっとする。翌日訪れた広州博物館に行って良く分かったのだが、沙面はパール・リバー「珠江」に面し阿片戦争前後の旧広州市の城壁のすぐ外に張り出した出島だったのだ。広州の街の喧騒からここに入ると趣のある旧外国公館や商館が珠江に面して整然と二列に並びその間に伸びる広い遊歩道の両側には鬱蒼とした緑の並木が見事。 大河、珠江の風も心地よい。 今回は奮発してここにあるホワイト・スワンに投宿。 ロビーにも結構人出だが満室なのかチェックインがなかなか終わらない。 やっと鍵をもらってきてくれた夫がニコニコしている。 普通の部屋があいていないので3部屋ともスイートにグレードアップだって!ラッキーッ!キャホーッ!ロビーは少し古くなった感じがしたがエグゼクティブ・フロアはリノべーションしたばかりで室内もデラックス。余りの立派さに両親の恐縮すること!(ぐひひ)子供たちも一部屋あてがわれて興奮してそこらへんを駆け回っている。(むちゃくちゃ分不相応)

 珠江の風に当たりながら暖かい南国のクリスマスの散歩を楽しんだ後、ホテルで広東料理の夕食。部屋に戻ろうとレストランを出るとすごい人出。吹き抜けになったロビー3フロア分はさしずめ大晦日のアメ横の人出の3段重ね。 しかし、みんな食事やドリンクに来たのではなくホテルのクリスマスの飾り付けを見物に来るのだそうだ。 飾り付けといっても吹き抜けに吊るしてある提灯とポインセチアの鉢植え、それにそれほど豪華でもないクリスマス・ツリーといったところでわざわざ見に来るほどのこともないとおもいのだが、これがどうも当世のクリスマスのホット・スポットになっているようだ。私たちは思わずこの人出をカメラに収めた。 部屋に戻って上から眺めてみるとちゃんと入り口と出口を分けて人の流れをコントロールしている。 香港に比べるとずっと暗くて平坦な眼下の夜の広州の市街、すぐそばに空港があるらしく飛行機が次々と降りてきては飛んでいく。 この飛行場ももうすぐ移転するのだそうだ。




TOPに戻る


1月13日


「広州のクリスマス その1」

 クリスマス前から日本から両親が来ているので今回はマカオでも連れて行こうかと思っていたのだが、かの地は このところやくざの抗争やらで随分物騒なニュースが続いており中国本土で手っ取り早い所として広州へ連れ て行くことにした。丁度長男も学校が休みで帰っているところだったので総勢6名ででかけることとなった。

 広州へ家族で出かけるのは今回で3回目。 友達や同僚にクリスマスに広州へ行くと言うと"変わってるわねえ」 という顔をされるのだが、ま、そこは好き好き。この数年で広州の日本人駐在の人は随分増えたようだが生活や 学校の関係等で家族は香港に置いて週末パパの人が結構多い。 我が家の夫もこの数年ウイークデイの殆どは広 州で働き週末を家族と過ごすためにせっせと広州・香港間を往復している。昔は飛行機で通っていたのだが最近 は鉄道の便がスピードアップされ発着時間も正確なのでもっぱらこのKowloon Canton Railway(略して KCR)九龍・広東鉄道を利用している。 以前行った頃は九龍駅が古かったり建て直し中だったりして電車の発車 寸前まで駅舎の外で待たされたのだが今回は新装なった九龍駅のレストランで昼食を摂り、日本製の新型二階建 て車両で快適な旅。 この駅香港の新空港と感じが似ていると思ったら同じ建築家のデザインによるものらし い。

 九龍・広東の直行列車は一日三便、その内午後二時の一便だけこの新型車両。旧来の車両も"中国#という感じが してそれなりに趣があるものだが一等車でも座席が狭く老朽感が否めない。そこへいくと新車両は全てデジタル 表示で座席もさすが日本製だけあってデラックス仕上げ。普通車は一列4座席、一等車は三座席。 広軌なので なおさらゆったり。二階建てだけど天井の低さを感じさせない。全席指定なのに中国人は急いで乗り込みたが る。 なぜかというと荷物を沢山持ち込むのでそのスペースを確保するためだそうだ。 飛行機の場合でもそうな のだが、乗り込むと機内または車輌の前と後ろで仲間同士でわあわあと叫び合うまたあれかぁ、と思っていると 今回私たちが乗り合わせた車輌の乗客はおとなしい人ばかり。 車内に乗り込むと、おっ、さすがきれいなお姉 さんがしゃれたユニフォームでご案内。 明らかに香港の人で夫に言わせるとヘタクソな北京語らしい。 ちょっ と前までは飛行機や国際列車の女性客室乗務員は共産党の幹部の娘しかなれなかったらしく、その頃のサービス ときたらいかにも乗せてやってるみたいでひどいものだった。 今は民航も分割化されサービスもずっとよくな ったのは夏に昆明と成都に行った時に経験した。 席に着いて落ち着いた頃、なにやらリンリン鐘の音がすると 思ったらサンタクロースがチョコレートのプレゼントを乗客全員に配っているではないか! 子供には熊のぬい ぐるみまで!。そうこうしているうちに今度は飲み物のサービス。 旧式の車輌の時はパック入りジュースか大 きな薬缶で入れてくれる中国茶だったが今回はちゃんとした瀬戸物のカップ&ソーサーにちゃんとしたコーヒ ー、紅茶。うむ、がんばってるのう、おぬし。

 広州駅も移転してモダンな新しい駅舎になっていた。 ホームの階段にはエスカレータも付いていたが一機しか なくいまいちデザイン的に人の流れが良くない。(つくづく思うが香港の地下鉄の駅はどこもほんとに良く出来 ている) まだ完全に出来上がっていないらしくあちこち工事中。それでも出口付近に並んでいる売店は大昔の 天王寺なんかを思わせるような古くてちゃちな感じがするのはこれもローカル色のせい? 駅をでたところはさ すが"中国"的人波で人も車もぐちゃぐちゃ。人待ち顔でもなさそうにたむろしているのは田舎者のカモを狙っ ている白タクの斡旋屋か仕事を探している日雇い労働者? でも以前の駅前にいた物乞いの姿はなかった。




TOPに戻る


極楽とんぼホームページへ