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3月27日


「NZ学校訪問の旅 ー3」

3日目

 香港から十数時間も奴隷船のようなエコノミークラスの座席でのフライトはいささか疲れる。 着いた日の夜も翌朝寝過ごさないようにと緊張していたため寝たのか寝ていないのか分からないうちに朝になり頭痛を引きずっての2日間だった。 前日のおいしいワインが効いたのか久しぶりに朝9時までゆっくりよく眠れてスッキリ気分。 紅茶を入れてテーブルに置くと普段はココアを飲む次男も「ぼくもティーにしようかな」とドーナツとを食べ出す。 ミルクがいいせいか紅茶もおいしい。 クリーミーなナチュラルヨーグルトにカチッとしたミックスフルーツのジャムをどさっと放り込みブラウン・ブレッドをトーストして遅い朝食。 ブラウン・ブレッドの種類が多いのにも感心した。 M子さんはマフィンがおいしいと言っていたが。 デザートはネクタリン。 実が締まっておいしい。

 昼近くまでダラダラし、近くにある旅行代理店に電話する。 いつも長男の切符を手配してくれているSteveの都合を聞いて早速訪ねることにした。 パーネル・ビレッジに程近いしゃれたガラス張りの彼のオフィスはすぐ分かった。 入り口のガラス扉に「ON PARLE FRANCAIS」と書いてあり、中に入るとカウンターの人はフランス語で接客している。オーストラリアと並びNZは英語圏だが旧フランス領ポリネシア諸島やタヒチ等フランス語圏も近いのだ。 「タヒチか、いいなあ」と思っていたら Steveが出て来て「やっと会えましたね。」とご対面。 早速長男の次の切符の手配と週末に子供たちを連れ出すのにふさわしい場所を聞いてみた。 実はこの週末は全員寮を出なければならない週で香港から来ている長男の友達二人、ケンゾーとアダムのためにも一部屋予約してある。(3人とも言わずもがなラグビー留学) 適当なパンフレットをもらいNew Market 駅までの道順を教えてもらって学校へ向かった。

 New Market までは市内循環バスでも行けるが土地感を掴むためぶーたれる次男をなだめて歩いて行くことにした。 お天気もいいし、しゃれたブティックやコーヒーショップが点在するパーネル・ロードを歩くのは気持ちが良かった。20分ほど歩き New Market の繁華街に着いたが道ゆく人たちは誰も鉄道の駅など知らない。 やっと見つけた駅は道路下の引込線の様な所でやはり殺風景なプラットホームだけ。 だいたい観光地図に乗っていないのだ。 運よく電車は間もなく来たが目的の駅まであと少しという所で動かなくなってしまった。 誰も不思議そうなそぶりをしない。 しばらくして信号の故障だとアナウンスがあった。 そういえば一度も対向車輌とすれ違っていない。NZで一番大きな都会だというのに車輌も何十年も前のもののようだ。結局20分ほどして何事もなかったかのように発車した。

 前日都合が付かなかった日本語の先生との約束の時間には間にあった。 昨年はラテン語とフランス語が必須科目だった。一学期遅れて入学した長男はラテン語には苦労したようだがフランス語は香港ですでに2年半学習していたため始めたばかりの他の生徒が追いつくまでとケンゾーと長男は別室で教材を渡されちゃんとした授業を受けていないというのを知りHead of Language でもあるこの先生とはメールや電話で何度かやり取りしていたのだ。 長男は公文や塾で国語を続けてはいたがどうしても小学校3ー4年生のレベルから先に進まずやる気をなくしていたのだ。 「銀行」と「人口」、「夜間」と「薬缶」の違い等が分からず日本語の会話は常にトンチンカン。 笑ってしまって話にならない。 ところがどういう風の吹き回しか今年からレイと一緒にForm6&7の日本語のコースを取ったのだ。 日本語が殆ど分からないケンゾーまで初級のコースを取ったという。 長男の取ったコースの後にはBursaryというイギリスのAレベルに相当する試験がありその結果は進学に重要な要素になる。日本の事情を知らない外国人向けのコースだから大したレベルには達しないがそれ以上のレベルに挑戦できるようであれば大学のコースを取り入れることも可能だとこの先生は言ってくれた。 日本語をしゃべっている時でも英語で考えている節がある長男にとっては却って取り組みやすい方法かも知れない。 しかし、我が子がキーウィー(NZの人達は自分たちのことを誇り高くこう呼ぶ)に日本語を教わることになるとは。

 この日も陸上競技の予選があったが長男は砲丸投げの後、ローイングのため一旦寮に戻り着替えて5km先のボート小屋までジョギング。 彼の学年のコーチ、ジョンが次男と私を車で連れて行ってくれた。 小屋はあくまでも小屋だがボートの数とその立派さに圧倒されてしまった。 水に浮かべてちょっと押せばスーと走っていきそうなかっこいいボートばかりだ。 ローイングはお金がかかると聞いていたので長男がしたいと言い出した時には大分ためらったのだがこれじゃお金もかかる筈。 次男はコーチ用のモーターボートに載せてもらい長男のクルーとタマキ・リバーを下っていった。 彼らが帰ってくるまで1時間ほどの間あたりをウロウロしたが対岸の景色はイギリスのそれにそっくり。 しかし太陽の強さは決定的に違う。 南極のオゾンホールに近いというのにキーウィー達は帽子も被らないし無防備な人が多く、実際に皮膚癌になる人が多い。 小屋に戻って日陰で休んでいると何時の間にやら他のコーチ達が戻って来てオールのメンテナンスをしている。 「そんなこと生徒達にさせたらどうですか」と言うと「いや彼らは忙しくて時間が無いんだよ」確かにそうかもしれないけどちょっと過保護じゃないかしら。 そのうち姿は見えねど素晴らしいバリトンのジョンの声が川の遠くから聞こえて来て次男も興奮して戻って来た。 クルーがボートを引き上げたり洗っている間コックスと一緒にいそいそとオールを運んだりしている。 要領のいい奴だ。

 10人ほどの子供たちはミニ・バンのタクシーを呼びぎゅうぎゅうに乗り込んで帰っていった。 この頃には終電が終わっていたのでジョンは私たちの宿まで送ってくれた。 途中オークランド子供病院、ドメイン、パーネル教会堂などを通り詳しくガイドもしてくれた。この人は大柄で顔はモンスターのようだがその親切さと物腰のよさは並外れいる。 生徒達は先生のことを必ず 「Sir」と呼び、先生は生徒のことを 「Young Genglemen」と呼びかけることもある。 こういう人たちから教育を受ける長男は何と幸せなことか。

 シャワーを浴びて食事に出る。 パーネル・ロード中ほどの「Alligator Pear」という店に入るとおいしそうな魚介類のソースの匂い。次男はつられてシーフード・ホワイトソース・スパゲッティ。 私は迷わずロースト・ラムに赤ワイン。 NZの多くのレストランでは飲み物を持ち込むことが出来る。 ボトルワインを持って来てもよかったのだが子供連れの女が一人でボトルぶら下げて、というのもちょっと勇気が要るものだ。 しかしどうもまだ体調が戻っていないのか盛り付けもきれいで美味しいのに食が進まない。 ここの名物は洋梨の形に揚げたコロッケ。 中身はマッシュポテトに梨の裏ごししたものを混ぜ込んだもの。 スパイスもほどよく効いてなかなかオツな一品でありました。 帰ったら一度やってみよう。

つづく






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3月22日


「NZ学校訪問の旅 ー2」

 2日目  校長先生との面接は朝9時。 前日にタクシーを予約してあったが約束の15分前にはすでに到着して待っていてくれていた。 学校まで20分ほどの緊張したドライブ。 学校の門から校舎のある校長先生のオフィスまでもけっこうある。 気のいい運転手さんで料金もまけてくれた。 カラカラの夏の終わりだが広大なグランドは芝生が青々、そして赤煉瓦造りのチャペルや校舎がそれを半分ほど囲むように並んでいる。 私もこういう環境で学生生活を送りたかったものだ。 校長先生専用の建物に入るとすでに秘書が仕事を始めており名前を告げると待合室に通される。 この学校は100年以上の歴史があるが現在地に移転したのが1920年代。 重厚で落ち着いた木の内装はどことなく懐かしい感じで落ち着かせる。 ドアのノブが非常に高い所にあり窓ガラスにはさりげないステンドグラスや飾りガラスが嵌められている。こういう品のよい環境で育った子はセンスも良くなろうというもの。

 約束の時間より早かったにもかかわらず間もなく校長先生の部屋に通されご挨拶。 大変な人格者との話は聞いていたが非常に気さくな方で、まず長男の話、学校に対する質問や希望事項などがないか、また6月の香港訪問の折り香港在住の両親や保護者との懇談会を計画していることなど和やかに話した後、

校長先生 「ハロー、ゼン、どうしてこの学校に来たいの?」
次男 「思い切りラグビーしたいから」と着ているオークランド・ブルーのジャージーの胸を張る。
校長先生 「コンピューターは得意ですか?」
次男 「はい、あんまり難しいことは出来ないけど学校でも習っているし毎日使ってます。」
校長先生 「何か音楽していますか?」
次男 「ピアノ少ししてたけど難しいからやめちゃった。」(私、もう少し頑張って続けてたらよかったのに。)
校長先生 「じゃ、アートは何が得意?」
次男 「僕あんまり得意じゃないの。」 (私、もうちょっと何とかうまいこと言えんのかい?)

とこういう具合にぱっとしない面接だったが、次男は最後に 「2年経ったら来ます。」と自信あり気。 この学校では成績の良い生徒には奨学金を出しているがスポーツや音楽、演劇などひとつでも飛びぬけて才能のある子にも奨学金を出している。 コンピューターにも熱心でForm6&7 (日本の高校3・4年生にあたる。そのかわり大学は3年制)になると全員ラップトップを使っての授業になる。

再び待合室で入学願書に記入していると長男のハウス・マスターが息せき切って入って来た。一番会いたかった人だ。 親たちはもちろん、子供たちに絶大に尊敬されている先生だ。 しかも元オール・ブラックスのプレヤーでもある。 長男を入学させる時連れてきた夫はこの先生と校長先生の人柄にふれて安心して帰ってきたものだ。 隣の棟の職員用ラウンジに案内されると間もなく長男がはにかみながら入ってきた。 ぱりっとアイロンの効いたグレーのシャツに半ズボン、えんじ色のハイソックスに黒靴と戦前のヨーロッパのお坊ちゃまといういでたちだがなかなかかっこよいではないか。 お互い懐かしさに思わずhug。 思えば家族と暮らしていた頃の彼は自宅にいれば悪態つき放題、学校や外で会えば目をそらしたり関係ないとばかり離れて歩いたりしていたものだが家族と離れてからは素直になったものだ。

ハウス・マスターは次の授業まで少し時間があるのでと彼の車で学校内を案内してくれた。 なるほどとても歩いて回れないほど広大な敷地をぐるっとまわってもらって最後にほぼ外れにある次男の寮に到着。 まず寮とドア一枚で繋がっている彼の家に案内してもらいダイニングに通じるオープンキッチンでお茶を頂きながらつもる話をひとしきりした後、寮を案内してもらった。 昨年長男が使っていたForm3 (日本の中学3年に相当)の部屋と今使っているForm4の大部屋にはベッドが10余り並べられ、 Form5と6は二人部屋、7は個室。 Form3の生徒はfagと呼ばれForm7のfag masterにお仕えしなければならない、というのは昔の話で最上級生は慣れない初年兵、いや初年生の面倒をみるのだそうだ。 大事なお菓子やラーメンなんかも預かってくれるのだそうだ。(大事なものが食べ物と いう所が長男らしい) 上級生と下級生用に別々のコモン・ルームがありテレビが置いてある。 その他、宿題をする部屋、スポーツ用具等を収納するロッカー部屋、スーツケースや大きいものを収納する部屋、シャワールーム、その入り口にはバスタオルがずらっとかけてありヒーターに繋がっているのでタオルは常にふかふか。お庭には週末にバーベキューをするところまである。 裏口には泥靴を置く所、汚れた服を仕分けて入れる袋等が並び、別の部屋ではきれいに洗ってアイロンをかけた服が持ち主を待っている。 (何と恵まれた環境。日本の学校の寮では掃除、洗濯は自分でするのだぞっ。) それでもベッドが狭いとか食事に飽きたとか文句を言いおる、たわけ者めが。

その後たまたま授業がない時間に寮で自習していたForm7の男の子を掴まえて校舎をくまなく案内してもらった。これを列挙しだしたらきりがないのでもう割愛するが、学校の隣にコロニアルスタイルの豪勢なクラブハウスを持つゴルフクラブがあり、ゴルフ部員はここを使えるのだそうだ。 いや、参ったねぇ、究極のお坊ちゃま学校。

それから各教科の担任の先生達と短い面談を終えると短縮授業中のため放課後になり、陸上競技の予選が始まった。ハウス毎に色の異なるジャージーを着てずらっと揃った子供(といっても皆体格が立派なので子供とは言い難いが)の中から意外にも次男は随分「お友達」を見つけたのだ。 香港の学校や水泳で一緒だったらしいが、皆ニュージーランド人で親は香港駐在を続けているためだ。 Form6と7には女子生徒もいる。 ちなみに次男の小学一年生の時の担任の先生は後で知ったのだが偶然にもこの学校の出身。やはり彼女のお父さんも弟も同様にOB。 我が家の長男の入学を殊のほか喜んでくれたのだ。 世間は狭い、うっかり悪いことは出来ません。

帰路は電車に乗ってみることにした。 オークランドに向かう最終電車はなんと5時!(午後の5時です。念のため)日通いの生徒達に付いて駅まで行ったがプラットホームはあるが改札はおろか切符売場も駅員もいない。 見当をつけた列車に乗り込み、やって来た車掌から切符を買うと次男も私もいつのまにかぐっすり眠ってしまった。 肩を揺すぶられて寝ぼけ眼を開けると車掌が「オークランドですよ」と言っている。 どうやらここが終点ではなかったようだ。

オークランド駅もただホームが並んでいるだけで改札もなければ駅員らしい人もいない。やれやれ、どっと疲れて宿に戻り一寝入りした後冷蔵庫から取り出して飲んだ白ワインとチーズのおいしさが忘れなれない。

つづく






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3月21日


「NZ学校訪問の旅 ー1」

 反抗期真っ盛りの長男とのコミュニケーションは彼がニュージーランドに行ってから良い方向に向かった。 夏時間の間は5時間の時差があり電話連絡はうまく行かない。 手紙を書く子ではないがE−メールは苦にならないらしい。 しかし何しろ行ったことのない国でいまひとつ様子が分からないし入ってくる情報も断片的なので機会を作って観てこなくてはと思っていた。 先生方との連絡ももっぱらEメール。 実はこちらの夏休みでNZでは短い冬休みになる7月をメドに南国育ちで雪を見たことがない息子達と長年憧れていた南半球でのスキーを目ろんでいたのだ。

 ところがチャンスは思わぬ方向から来た。 長男の学校はフル・ボーディング、ウィークリー・ボーディング、日通いと選べるが彼の場合はもちろんフル・ボーディング。 しかし時々全員寮を出なければならない週末もあり親戚はおろか知人もいない長男はその度に友達の家にお世話になっている。 そうした友達の中に同じ寮ではないがレイがいた。 レイのお母さんは日本人。 お礼の電話をかけたのがきっかけで嬉しい交流が始まった。 しかも彼女のご主人はこの学校のOB。 事情が分からない我々にとって何ともありがたい相談相手。 その彼らから2月の最終土曜日に全校陸上競技大会とハウス(寮)毎の保護者ピクニックランチ,そしてカクテルパーティーもあるので一緒に観戦しませんかとお誘いを頂いた。 それに長男はラグビーがない夏の間のスポーツとしてローイングを始めたのでそれも是非見たいところ。 そこで次男も学校を2週間休ませて連れて行くことにした。 なにしろこの子は2年後には完全に行くつもりにしているから学校の様子を見るのには良い機会だ。
 飛行機の切符は長男の里帰り便を毎回手配してくれているオークランドの旅行代理店に依頼。香港で購入するより安い。 パーネル地区でキッチン付きのモーテルを依頼すると一泊NZ$99(約6300円)で予約してくれた。かなり割引してくれた。 パーネルは街の中心部へもすぐ、高級住宅地とドメインに挟まれ東京でいえば代官山か麻布といった感じ。 質素なNZにしてはしゃれたブティックやレストラン、アートギャラリー等が並ぶ飛びぬけておしゃれな一角。

1日目

 香港を夜10時15分に出発。シドニー経由でオークランドには翌日午後4時40分着。夜行便は結構つらい。NZは偉大な農業国なので検疫が厳しい。 食べ物、動植物は申告しなければならない。(長男がローイングの合宿に持って行った大量のフルーツケーキとクッキーは無事通過したそうだが) 入国手続きをする手前に免税店があるので白ワインを購入。3本でNZ$47(約3000円)。 1本は滞在中にじっくり飲んだがなかなかいける。

 空港にはレイのお母さん、M子さんが迎えに来てくれてた。 空港を出ると抜けるように青い空とその大きいことに(大袈裟に言うと)胸を打たれてしまった。 香港の空はそそり立つ山と高層ビルに阻まれ空気汚染が深刻化しここのところ常に鉛色。 空港ビルには「AUKLAND CITY OF SAIL」とある。 ここは空と海、湖の土地なのだ。 長男がローイングをしたくなったのも無理からぬ事だった。 今年の末にかけてアメリカズ・カップも行われる。

 まずモーテルにチェックイン。ベッドルームにはダブルベッドとシングルベッド、リビングルームにもう一つ合計3つのベッド。 けして豪華ではないがスペースも充分で趣味も悪くない。 キッチンには冷蔵庫、オーブン、なべ釜、調理器具、トースター、電気ポット、食器類一通り揃っていてすぐにでも調理出来そう。 ワイン・オープナーもあるので早速仕入れてきた白ワインを冷蔵庫に入れると250ccの牛乳が入っている。 NZのモーテルはどこも毎日これを入れてくれるんだそうだ。 さすが酪農国。 その他バスルームも広々としておりリビングルームには4人用のダイニング・セット、ソファ・セット、とモーテルというよりサービス・アパートメントと言った感じ。

 一段落して再びM子さんの車で近くのショッピングモールに連れていってもらう。食料等を仕入れたいのはもちろんだが私は初めての土地でスーパーマーケットに行くのを楽しみにしている。 その土地の暮らしや物価が分かるし見慣れない野菜や果物に遭遇するのも面白い。 連れていってもらったスーパーはさすが高級住宅地だけあってモダンで立派。 新鮮で豊富な生鮮食料品、チーズやハム、ソーセージ、ワインの種類の豊富なことと安価なこと。 ちなみに本物の濃厚牛乳1リットルNZ$1.5 (約90円),ナチュラル・ヨーグルト1kgNZ$5 (約300円)ジャム500gNZ$2(約130円)などは感激物であった。 おまけにとってもおいかったのだ。 なにより嬉しかったのは色とりどりの可愛い季節の花がNZ$10−20ですぐにプレゼントできるようにきれいにラッピングされていたこと。 あっという間に大型のトロリーにいっぱい買い込んでしまい、M子さんに「一月ぐらい滞在するつもり?」と冷やかされてしまった。

 夕食は閑静な住宅地にあるM子さんのお宅でごちそうになる。 彼女のご主人からこの機会に校長先生との面接を次男に受けさせておくというアドバイスももらっていた。 次男は早速どんな質問をされるかなど聞いて模擬面接。 彼も自宅がそう遠くないのにフルボーディングで、彼の時代には冬でも毎朝冷水のシャワーを浴びなければならなかったこと、上級生とは話し掛けられるまで口を利いてはいけなかったこと、帰宅が許される週末にはまずチャペルでお祈りしてガチガチの正装のうえ日帰りしか許されていなかったこと、などなどひたすら「へーっ」。 ちなみにこれは30年ほど前の話だが、けして戦前ではない。 彼のファミリーの男性は全員この学校出身でオール・ブラックスで活躍していた人もいたそうだ。 どうも彼はこの土地では名門のお坊ちゃまらしい。 生まれた時からエリートコースが用意されていて選択の余地がなかったらしい。 その頃外国人生徒というと南の島の王子様ぐらいだったから香港からラグビーしたさに勢い込んでやってきた我が家の長男なんぞはこのご主人にとっては新鮮な驚きだったそうだ。

つづく






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3月15日


「タイランド・ツアー 2 & 3」

タイの主催者からの回答はなかなか得られなかった。丁度その頃バンコクでアジア大会があったのだが、その間学校も2週間お休みだったそうだ。 そういえば、バンコクは鉄道や道路網の開発が遅れているので中心部の交通麻痺は名だたるもの。休校にしてしまうのも無理ないことでしょう。 相手の返事を待っていては埒が明かないが試合の日は1月16日の土曜日ということだけは決まっているので飛行機、宿舎、観光の手配を先行させることにした。

飛行機はキャセイとタイ航空がそれぞれ一日に5ー6便飛ばしているしピークの時期でもないので選りどりみどり。 日程は木曜日出発の3泊組と金曜日出発の2泊組、しかもそれぞれ午前、午後、夜の便を参加者の都合に合わせて組んだので最終的には150人近くに膨らんだ参加者全員を希望通りの便に手配するのに泣きを見る目に会ってしまった。 というのは、とうに申込締め切った後でかけ込んできた人や変更して欲しい人たちが出発直前まで続出しその度にリストを変更、更新、フライトを手配してくれる旅行会社と連日電話、ファックス、Eメールと昼間は仕事そっちのけで夜はひたすら苦手のパソコンに向かうことになってしまった。 しかし、担当のエシラという中国人女性は一度も文句を言わず約束通りきちんと全員のファミリー毎に切符と旅程表を入れたビニールの袋の束を届けてくれた。

主催者から参加者向けにこういうのがありますと3泊4日のホテル、送迎、観光のパーケージを紹介されたが悪いけどそんなものを当てにしていたら何時まとまるか分からないので一応それを雛形に独自で組んでみることにした。 ホテルは前回のジャパン・ツアーの延泊組用に京都のホテルをお願いした日系大手ホテル会社のS子さんに見積もりを依頼したところ、「ちょうどいい人がいるのよ。」と最近までバンコクにいたという日系の旅行代理店の人を紹介してもらった。 結局S子さんのホテルとは直接の交渉、支払いとなったが、この元バンコク駐在氏のアドバイスですっかりバンコクの様子や注意点、さらにカセツァート大学のことまで分かり、観光や送迎等の手配をすることができた。 彼はかつてバンコクの日本人学校とカセツァート大学との交流会を手配した経験もあったのだ。 彼らから貰った見積もりと主催者側紹介のパーケージを比べ内容的にも価格的にも委員会で納得した上でS子さんと元バンコク駐在氏にホテルと観光を依頼した。 彼らとの直接の打ち合わせは打てば響くという感じで細かいいろいろな要望も全て受け止めてもらえて実際私にとって大助かりとなった。 おかげで今回は一度も国際電話・ファックスをしないで済んだのだ。

そうこうしているうちに試合表が出発の前日にファックスされてきた。 今回の海外からの参加は我々のみであとはタイの各地から。さて、私たち家族は最大に楽しむため次男を2日間学校サボらせ木曜日の朝出発。 香港ーバンコク間は2時間半ほどで国内旅行並。プーケットなんて香港の熱海か白浜という感じですねえ。 飛行機をから出て空港ビルに入ったとたん、Wellcome Hong Kong Football Club の看板を掲げたタイ航空のスタッフ数名にタイの花輪を頂いてしまった。 聞いてみるとカセツァート大学でラグビーをしている子供達のお母さん達。 あーよかった。インターネットの情報は本当だったんだ。疑って申し訳なかった。 彼女たちにすいている入国審査カウンターに案内され審査官も「微笑みの国タイ」。荷物を引き取り出た所で出迎えのDr.Jittinunに紹介される。 ドクターというからおじ様かと思っていたのだが、品のいい奥様という感じの人で「試合は朝7時に始まりますから遅れないで来て下さいね。」 そう、だから日曜日の朝食は五時に予約してあり、その旨は太字で参加者に強調してあります。

出迎えのバス2台で一路Sukhmvit Roadにあるホテルへ。 コーヒーショップに案内されウェルカムドリンクで一息ついている間に私たちのツアー担当のマネージャーから鍵を渡されそれぞれの部屋に。 扉一枚隔てた隣の部屋では次男と友達三人がおおはしゃぎ。 皆小学校から同じ学校でラグビーも一緒の大の仲良し。 その内、次男の大親友のウォレンはお父さんと一緒だが、サムとケンは子供だけで来ている。部屋はエクストラ・ベッド一台入れても充分広く子供たちは興奮しまくってその辺駆け回っている。 その内プールサイドのコーヒーショップから電話がかかってきて「ハンバーグ食べてもいい?」だって!香港の子供はホリデー慣れし過ぎておるっ。 プールは2個所あるしバンコクで一番部屋数の多い大きなホテルだから探検する場所に事欠かず結局夕食の時間まで帰って来なかった。 夕食は最上階の日本食レストランでお箸を遣ったことがない南アフリカ出身のウォレンが2時間かかって奮闘してました。

翌日金曜日は一日観光。午前中はエメラルド寺院と隣接の王宮。途中にぎやかなマーケットを通過した一部はあたり一面おびただしい量のマリーゴールドの海。 もちろん他の花もあるのだが前日空港で貰ったような短い花輪を作って売っている。 街のあちこちで見かけた祭壇のようなところにお供えされているのを見かけたが他にどう使うのだろうか? さらにチャイナタウンも通りかかったが見当のつかないタイ語の世界で漢字を見るとなんとなくほっとする。

王室に対するタイの人の尊敬は大変なもので王宮寺院では半ズボン、ノースリーブ、サンダルもだめと事前に注意してあったのに一人いました、うっかりさん。普段の日なのにものすごい人出。香港の観光客は半減したというのにタイは通貨危機以来ちょっとした観光ブーム。 だから私たちも5つ星ホテルで3泊4日食事付きで大人一人HK$3,200 (約5万円)なんて破格の値段でツアーを組めたのだ。 昼はメナム川沿いのタイレストランでブッフェ・ランチ。豊富なメニューどれもおいしかった。 午後はサンプランという郊外の動物園で像のショーとワニのショーを見物。 昔の人は像に乗って戦争していたのだろうか。像のサッカーやディスコなんてのも見せてくれて楽しめたがワニのショーは人の頭をワニの口の中に入れたりして気持ち悪い。 夕食はホテルのイタリアン・レストラン。 かなり高級な感じで私たちが最初の客であったため子供たちは多少緊張していたが、その内どこかで聞いたような声で 「Who wants pizza?」 で始まりワイワイしてきた。様子を見に行くとやっぱり我がツアーグループで高級レストランが一遍にファミリーレストランになってしまった。

つづく

土曜日朝五時に朝食に降りていったら驚いたことに沢山の人たちがすでに食事を始めている。殆ど全員日本人。後で聞くとゴルフに行くにしても観光に行くにしても朝のラッシュが始まる前に出発するためだそうだ。それにどこも遠いらしい。 広大なロビーの一角で全員ツアー用作ったジャージー、ポロシャツを着て出陣前の記念写真をとり、6時20分バス4台で出発。 Sukhmvit Road にはすでに交通量は増えていたが程なく高速に入り無事時間前に到着。タイは今が「冬」だそうで日中は熱いが朝夕はひんやりと涼しい。

早速Dr.Jittinunの案内で私たちが遣わせてもらえるテントまで連れていってもらいちゃんと椅子もならべられている。「ランチはあちらのテントですが、その前にもうすぐモーニングティーが出ますのでくつろいで下さい。向こうのテントでは終日冷たい飲み物をサービスしています。 一切無料です、ご遠慮なく。 更衣室にはエアコン入れておきました、シャワールームはあちらです。」といたれりつくせり。疑ってすみませんでした。そのうち学長氏の挨拶で開会式が始まりあっちこっちでゲームも始まった。 この頃には私はすっかり緊張が解けて出されたお茶を飲んだりお菓子をつまんだりあちこちの人と雑談したりともうゲームなんかどうでもよくなってしまった。

そのうち、ゲームは父親達に任せておいて女性陣は近くにあるウィークエンドマーケットに行こうということになり目的地と現在地をタイ語で書いてもらいタクシーをすっとばしてお買い物ツアーに出発。何せ広大な大学なので表の通りに出るまで大分歩いたがタクシーに乗ると15分ほどでトタン屋根がどこまでも広がる巨大な「闇市」に到着。 私も事前調査をして試合開場に程近いことと当日が丁度ウィークエンドにあたることもあり興味はあったから渡りの船だった。 どこから手をつけてよいのか分からなかったがとにかくエイッと飛び込み、片っ端から歩き回った。 果物、野菜、魚、肉、お菓子などの食料品、家庭雑貨、食器、家具、靴、服、装飾品、骨董品などありとあらゆる物が何重にも並んだ狭い路地の両脇にひしめき私は2時間ほどでフラフラになり先に帰ることにした。丁度気温も上昇してきて人出も増えてきた。すると「じゃあ、これお願いしていい?」と3人から骨董の機織り機を渡されてしまった。そりゃそうだ、こんな物担いでたんじゃじっくり買い物なんて出来ない。 タクシーに「戦利品」を詰め込み第一陣帰還。 私の戦利品その1。ガラスのアイスクリーム・ボウル1ダースと大ボウルのセットTHB400 (約1300円) 2。次男用に今流行のぶかぶかショーツTHB130 (約450円) 3。和紙のラッピングペーパー10枚にリボン。値段忘れた。みんな一緒に行った人に値切ってもらった。 日本人値切らない。

ゲーム会場に戻るとカンカン照りのなかゲームは盛り上がっておりタイ料理の昼食も盛り上がっていた。まずは水分補給とばかり冷たいビールをグッと。えっ、お堅い大学がこんな物出すの?いいえ、飲料水、ソフトドリンク、氷とアイスボックスは大学から支給だがビールは飲みたいお父さん達が順番にお金を出し、閑をもてあましているバスの運転手とガイドさんに頼んで買い出しに行ってもらったんだそうだ。 この日買い出し隊が何回出撃したか分からないがとにかく膨大な量のビールが我々のテントで消費された。 日本人が同じように飲んだらきっとつぶれる人が現れると思うが西洋人のアルコール消化能力には舌をまいてしまう。 今回も日本人ファミリー数組以外は全員西洋人。なかには奥さんが中国人という家庭もあるが、中国人の男性はたったの一人。香港の中国人男性に人気のスポーツは圧倒的にサッカーで、ラグビーが浸透するにはまだ時間がかかりそうだ。 香港スタジアムからどっと出てくるのが中国人男性ならサッカー、西洋人ならラグビー観戦とみて間違いない。

ところで、主催者から出されたタイ料理は家庭的な物が多くたいへん好評だった。運営もきっと全員ボランティアの両親達だと思うがどの人もとても感じがよく「微笑みの国」を感じさせられた。顔立ちなどは我々と余り変わらなく中国人みたいに大声でがなりたてるということはけっしてなく物腰やさしい。 服装は地味だが会場のすぐ外に止まっている車から推測するに生活に余裕がある人たちが多いだろう。 この国でもラグビーはまだ新しいスポーツのようだ。

帽子とサングラスで防護して何とか自分の子供の試合だけは何回か観戦したが、我がチームの子供たちが暑さぼけしているのか相手が強いのか少々押されぎみではあったが接戦であった。 強烈な太陽に気おされて、結局この日の残りの殆どを私はどこかのテントでグダグダしていた。 満ち足りた幸せな気分で。 夕方、閉会式が始まり一日声を嗄らせて走り回っていた夫は私を見つけるなり 「一日どこいってたんや?!」 見ると相手は日焼けとビール焼けで真っ赤。



PS 今回のツアーが終わるや否や早速次回(2000年)の話が出ています。日本のどこかの子供ラグビーチームで香港チームと親善試合に興味のある方はいらっしゃいませんかー?




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