似顔絵は三浦さんに描いていただきました。
似てるか似てないかはご想像にお・ま・か・せ。(^^)
「なにわの掲示板」に
ご感想、ご意見を書いていただくとうれしいです。
【8月31日号】【8月22日号】【8月10日号】【8月2日号】
【7月24日号】【5月30日号】
バックナンバー目次
8月31日号
「おばちゃんダンサーズ」
春から仕事が忙しくなり、Yジャズダンススタジオの7月恒例の公演の練習が重荷になって、とうとう今年も公演を降りることにした。このスタジオに所属して14年ぐらいになるが、この4,5年、父母の死やぎっくり腰になったりで、2,3回公演に出演していなかったので、今年こそと意気込んでいた矢先だが、責任ある仕事と趣味との秤をかけると、やっぱり趣味のダンスの方が軽かった訳・・・。
仕事の方は、府下の歴史的名所や、公共施設・観光施設、街並み等を取材して写真も自分で撮ってコンピューターで送稿するという、私にとって髪の毛が逆立ちしそうな難儀なしかも忙しい仕事だったが、なかなか刺激的で楽しかった。おまけに、仲間のスタッフも20代が殆ど、30代、40代がチラホラの中、50代のおばんがひとり混ざっているといった感じなのだが、皆さんに気持ちよく仲間にしてもらって、とても貴重な嬉しい半年の体験になった。
仕事で忙しくしていても、合間には好きな時間に参加できるスポーツジムのダンスレッスンやバレエには参加していた。スポーツジムのレッスンは初心者も出来る運動としてのダンスということで、汗をかいてジャグジーに浸って、さっぱり。あぁいい気持ち!ということで、それなりに満足していた。そして仕事も一段落して、スケジュールの許す限り参加していたら、それはそれで、結構楽しく気楽で、振り付けの難しさなどに悩むこともなく御機嫌だったのだ。その頃Yジャズダンススタジオは7月の公演も終わり、普段のレッスンスケジュールに戻っているはずだったが、何となく敷居が高くてそのまま、スポーツジムのレッスンでお茶を濁している毎日だった。このまま、離れていってもどうってことないか・・・と思い始めていた。再開するなら、9月から始めなきゃ・・・とも思っていた。気楽な楽しさを取るか、難しくて悩み深いレッスンを取るか。もう、タイムリミットが近づいていたが決めかねていた。
「くんちゃん? 元気してる? 今ね〜ぇ、とっても素敵なスローをやってるのよ〜。」懐かしい、ダンスの虫・クセちゃんの声。8月30日の夜、明日が8月最終のレッスン日と言う前日の夜に電話がかかってきた。彼女は今受けているレッスンの素晴らしさ、音楽の素晴らしさ、振り付けの思い入れ、R先生が心配している等を熱く、熱く語ってくれた。
そう、そう、そうなのよね。その思い入れなのよね。スポーツとしてのダンスじゃなくて、イメージの表現、アートとしての、ダンス。魂が体を通して表現するというアート。
それは、わかってるのよね。今のは楽しくてもなんだか物足りない、汗をかいてすっきりのダンス。
沸々と半年前のダンスへの思いが湧いてきた。「とにかく明日、レッスンの見学に行って見ようかな・・・」
と返事してしまった。
翌31日の朝、ダンス・命のベッちゃんが電話してきた。「どうしてんの〜? 音沙汰ないやん・・・」
「ハッハッハッ。今日黙って、レッスン見学に行こう思うてたのに・・・」と私。
かくて、登校拒否児童が、お迎えの友達に来てもらってこわごわ登校するみたいな状況と相成った。
それとも、やっと昔のやくざな友達から足を洗おうと思っていたのに、やっぱりズルズルと踏み入れてしまっている状況かも知れない。この8月31日、木曜日。
そして、再び始めるならもう一歩踏み込んだ、新しい状況の中でダンスをやろうという、なにか胎動のようなモノが、仲間のなかで動き始めている。
ダンスユニットを作って、自分達独自の振り付けでモーションを開始しょうとしている。
50代のおばちゃんダンサーズがやってみようとしていることは・・・。
墓穴を掘って、泥だらけになるかも知れない。でもいいじゃん。
墓穴に落ち込んで泥だらけになって、「あんた、泥だらけやで〜」「何言うてんのん、あんたこそ泥で真っ黒やわ〜」
やってみなきゃぁ、短い人生。
乞う、ご期待!
TOPに戻る
8月22日号
「監督」
夏休みの校庭から、今日も監督の怒鳴り声が聞こえてくる。
「なにやっとんじゃあ〜っ。・・・・・やろが〜っ」手持ちの拡声器から思いっきりのだみ声で、聞くに堪えない罵倒の嵐だ。
近くの中学の野球部の練習風景らしいが、この声が聞こえてくると私は部外者なのに、生徒達がかわいそうで腹が立ってくる。何もあんなに頭ごなしに怒鳴ることないのに・・・。生徒達は、どんな思いで練習をしているのだろう・・・。
先生も夏休みを返上して一生懸命教えているのだろうけど、ああいうやり方でいいのだろうかと、私は疑問に思う。命令され、怒鳴られ、上官の命令に服従する兵隊のような練習を繰り返していて、充実した部活と言えるのだろうか・・・。
確かに強制されないとなかなかやれない炎天下の筋トレとかダッシュとかの基本トレーニングもある。過酷な条件の下でないと培われない忍耐力もある。でも、軍隊じゃないのだから、ロボットじゃないのだから、目的のために一糸乱れず行動する必要がどこにあるというのだろう。ゲームを楽しむように持っていけばいいのに。
「好きこそものの上手なれ」という言葉がある。楽しかったら好きになる、好きになったら、つらい練習もいとわなくなるというもんだ。日本では儒教か封建制度の残骸か、とにかく忍耐とか、根性とか、刻苦勉励とかの精神論ばかりがもてはやされている。
夏の甲子園が終わった。過酷な練習や試合を繰り返して、真っ黒に日焼けした球児達が、全国から集まり、そして散った。いろんなチームがあって、いろんなタイプの監督さんがいたんだろな。
中でも印象的だったのが、育英高校の監督さんだった。投手は連投させないという信念で、準決勝まで勝ち進んだが敗退した。私達は、ややもすると一生に一回のことだから、肩が破れようが、肘がつぶれようが、指が血まみれになろうが、最後まで出してやればいいのに・・・と思ってしまい勝ち。美しく華と散るのが、日本人の美意識にこびりついている。明日のジョーのように、リングの上で灰になって、燃え尽きるのが好きなのだ。
以前にバレエダンサーの熊川哲也さんが言っていた。彼は14才の時からイギリスにバレエ留学をしており、その後ずっとロイヤルバレエ団で主役の舞台をつとめ、英国生活が長かった。「日本人は自分を犠牲にして無理をして舞台を努めようとする。無理をして足を痛めて再起不能になったら、誰がその保証をしてくれるのですか?」と。
高校野球を見ていても、監督さんの采配がさえていたチームというよりも、選手の一人一人が頑張ったチームの方がいいなぁ。ところで気になるのが、スクイズとかバント。あれって、めっちゃカッコ悪い。バントと見せないでバントをして欲しいな。私の美意識に反するね、あれは
TOPに戻る
8月10日号
「朝顔の花」
「あさがおに つるべとられて もらい水」
朝顔と言えば、この句が思い浮かぶ有名な加賀千代女さんの句。
我が家のベランダに、今年もこぼれ落ちたタネから朝顔のフタバがにょっきり顔を出した。クーラーを付け始める7月頃、除湿の水がホースを伝ってベランダの溝に流れ始める頃になると、たっぷりの水に触発されて鉢のこぼれ土の中から、たくましく芽を出してくる。つまり、人の手をかりた「養殖」ものじゃなく、「天然物」の朝顔と言うわけ。
毎年タネは収穫して引き出しに入れておくが、ついついタネを蒔くのを忘れて、いつも天然児の朝顔が独力で生まれてくる。そうなれば、やっぱりせっかくの命。
少ないこぼれ土に栄養土をかぶせたり、間引いて鉢に植え替えたりとかして、今年の夏も順調にツルが伸びて、ベランダの柵に巻き付いている。ユラユラと風に揺れながら、ツルの先っポはどこに巻き付こうかな〜と思案している様子。まるでコブラのように、ユラユラ・シュッと獲物に食いつくような、眼がついているかのような面構えだ。顕微鏡で見たらさぞかし潜望鏡のような先っぽがついてそうな気がする。あんまりブラブラと心許ないような伸び方をしているので「こっちに巻き付いたら、どう?」といった感じで柵にからませてやっても、やっぱり気に入らないのか、じぶんの好きな方にからみついて行く。このあたり、子育てとおんなじ。こっちにしてみたら?なんて言うそうものなら、かえって反対方向に行っちゃいそう・・・。そして、あくまでも左巻き。
子育ての真っ最中にこの朝顔を見ていたら、もっとうまく子育てできてたかもしれないなぁ。
水をせっせとやって、添え木を1本立ててやりさえすれば、太陽の日差しを受けて朝顔は自分で好きなように伸びていく。こっちへおいで、あっちに行ったらあかん・・・なんていらんお世話をしない方が、よく伸びるといったもんかもしれない・・・。
家中で一泊旅行に行く・・・となれば、「朝顔の水やり」がまず心配のタネに。この頃の日差しの強さでは朝晩水をやらないとしおれてしまう・・・。結局、出かける前にたっぷりやって、植木鉢の受け皿にも水を満たしてということで切り抜けた。朝顔日記を付けたいぐらい毎日ぐんぐん伸びて、葉っぱにもヒゲが生えてきた。細い華奢なツルなのに、さわると鋼のような強さが感じられ、生き物のたくましさに驚かされる。同じようにこぼれ土の中から芽を出したオシロイバナも、ひと夏でなんと太く枝を張り出して花を咲かせてしまうんだろ。夏の一年草は、面白いほど素直で単純で、わかりやすいなぁ。太陽の恩恵を謳歌している。冬の花はこうはいかない。密やかに密やかに、ゆっくり、じっくりだもの。
千代女さんの歌は、朝顔のそのたくましさにタジタジとなったのだと思う。生活に大切な井戸の水のことだから、毎日井戸端にもいただろうし、いつのまにか朝顔につるべを取られてしまったというよりも、一晩のうちに乗っ取られたということだろうか。単にかわいそうだからそのままにしておいたのではなく、その生命力に畏怖を感じたのだと思うのだけど・・・。
花が咲いたら、押し花をして紙を梳いた中に挟み込んでみよう・・・。そして、鋼のような細いツルで、秋になったら一度かごを編んでみてはどうだろう・・・。
朝顔のタネは、色々面白いタネを提供してくれそうだ。
TOPに戻る
8月2日号
「三宅一生展」
東京都現代美術館で8月20日迄行われている、「三宅一生展」を見た。
久しぶりに感動で背中がゾクゾクした展覧会だった。まず、見せ方がうまいなという感じがした。一生氏のデザインは、なんと言っても動きが面白い服なので、じっとマネキンが着て立っていたり、壁に吊っていたってその良さがわからない。天井から吊されたハンガーがコンピューターで制御されたモーターで、上がったり下がったりして、提灯のようなプリーツの服がその度に、ふんわかふんわか動いて面白かった。広くて天井の高い場内にいくつものいろんな服が思い思いに「ふんわかふんわか、ぺしゃん」(服がたたまれて、ぺちゃんこ状態)、「ふんわかふんわか、ぼよよん」、と動き回っている。昆虫や動物、オモチャの人形たちが場内を好きにはね回っているような、楽しい展示場だった。
そうかと思えば、四角い紙を張り合わせただけのような「ペーパーセイルズ」(紙の帆)と名付けられたコート。このコートの制作過程は、床に投影されたCGアニメが、只の四角い紙を順にはさみで切っていくプロセスを写し出している。床に写し出すのも、面白いと思った。上を見上げ続けるのは難しく、むしろ頭は下を向くように付けられているので、この方が自然な訳だった。
折り紙細工や千代紙人形の着物、日本に昔からあった揚柳や、絞りなどをヒントにしたと思われる衣服は、世界中から賞賛を浴びているが、私達日本人から見れば、とても当たり前で、妙になつかしくしっくりいく洋服なのだった。それもジャパネスクをウリにするだけではなく、現代西洋にも普遍化させることのできる根元的な力が、デザインにある様な気がする。
リキが入った展覧会ほど、奇をてらったびっくり戦法が取られて、内容が付いていかず見る方をシラケさせてしまうのがよくあるけれど、この展覧会は、内容、表現両方ががっぷり四っつになって、引き込まれてしまった。
過去のコレクションのステージングのビデオが流れていた。スレンダーなモデル達がひっきりなしにウオーキングする中で、時々ダンサー達の自由な踊りの動きが写し出されていた。引き締まった筋肉を持ったダンサー達の美しい動きを見ていると、感動でじんわりきてしまった。なんと衣装がしなやかに動きに調和しているのだろう。人間の動きがとてもいい。こんな衣装を着て踊ったらさぞかし、いい気分だろうな。ダンサーの気持ちを触発するような、自由で動き回りたくなるような衣服だと思った。
一生氏の衣服がなんでこんなにいいと思うのかな、心の底でうずくモノがあるんだろうと思っていると、謎が解けた。
一生氏が影響を受けたり、教えを乞うたり、ファンだという人達が、私もとても好きな人達だったのだ。
イサム・ノグチ氏、白洲正子氏、モーリス・ベジャール氏など・・・。
イサム・ノグチ氏は、「AKARI」の竹ひごと白い和紙で作ったちょうちんのような照明器具のシリーズを手がけた彫刻家。日本古来の美しさを再発見させてくれた人だ。小細工を労さない、ド〜ンとした根元的なモノを感じさせてくれる芸術家だと思う。
白洲正子氏も、根元的なモノという点で同じくすごい審美眼を持った女性だ。布や花や骨董に対しての美意識は本物を見抜くという点で、とても怖い人。
モーリス・ベジャール氏も、今までの型に捕らわれない独自の体の動きを振り付け、モダンダンスにありがちな自己満足じゃなく、ドラマチックに昇華させて見せてくれる、魔法使い。
時代もさほど違わない世代なので、彼が影響を受けた人物は私たちも影響を受けていたのだった。
私達がこうありたい、こうあって欲しいと思うことを、一生氏は、どんどん具体化してくれたということなのだろうか。70年代、80年代、90年代と、その時々のアーテイストとコラボレーションして、次々と新しく脱皮してきた一生氏は、2000年代にはどんな服を作るのだろう。
新世紀の衣服、「A−POC」というのが、これからの彼の服のテーマのようだ。輪っかになったニットの布があって、つま先から帽子まで、好きなように自分でハサミを入れて切り離せばいい。基本的な体の線に沿ってミシンが入れられているので、スカートの長さや袖の長さ、形、首回りの感じなど、後は好きなように切り刻んで着ればいいらしい。切っても始末が要らないように加工されている。工場でロールになって大量生産されている布なのに、誰一人として同じモノを着ていないという、とても現代的なのに個性的な衣服となる。会場では同じマネキンが順々に並んで、巨大なロールから吐き出された布にくるまっていた。それぞれがいろんな形に加工した服を着て、人間数珠つなぎで並んでいる。大量生産と個性。
とても良いテーマだと思った。
ロビーに出ると、その「A−POC」の一人前の布が売られていた。
薄い化繊のニット生地なのに、9万円?
う〜〜ん、一生さん、オートクチュールに反発して、一般人のための衣服を作ろうとしたんじゃぁないの?
「A−POC」は廉価・大量生産のはずじゃ、なかったのかな〜。
これじゃぁ、またしても憧れだけで手に取れない、「Issey miyake」だよ!
TOPに戻る
7月24日号
「盆踊り」
「大暑」と言う暦の言葉が、しっかりと現実の気候にマッチして、えらいもんやわ〜と妙に感心してしまう今日この頃。39度なんて、この半世紀の生涯にお目にかかったことがなかったもんで、日傘でさえぎっているはずもジリジリ照りつける日に、道路に出てきて干からんぽちになってしまったミイラの如きミミズの姿と、我が焼死体がオーバーラップしてしまった。日本って熱帯やったんや〜と改めて納得。それならば、こんな窮屈な服を着ずに、シーツの様な白い大きな布を貫頭衣のように被り着て、熱射を跳ね返し、風をはらんでさわやかに歩きたいもの・・・。
メラニン色素も早く全身に行き渡れば、シミだの日焼けだのと心配することもないはず。
ライチョウのように、冬季と夏季の姿が変色するっていうのも、理にかなうのね。
あ〜ぁ、ともかく暑すぎる!
あまりの暑さにウダウダと思ううちに、やってきました「盆踊り」。
子供が大きくなってしまって、とんと見に行かなくなって7、8年か・・・。
現場のにぎやかさ、騒々しさもすっかり忘れ去ってしまっていた。今年は回り持ちの自治会の役員になって、小学校の校庭で開かれる地域の盆踊りのお手伝いにはせ参じる。
現場に行けば、もともと踊り好き、お祭り好きの人間なので、自転車などの交通整理と言う地味なお手伝いにもかかわらず、提灯が点灯され、櫓からマイクのテストなんかの響きが聞こえてくると、ぐっと気分が盛り上がってくる。
子供会のお父さんやお母さん達は焼きそばやお好み焼き、ウインナ焼きなど、熱い鉄板を相手に汗みどろになって屋台を切り盛りしている。6時から7時半ぐらいまでの交通整理のお手伝いだったので、盆踊りが「さぁこれから・・・!」という時には自由の身になった。お手伝いのご褒美に缶ビールいただいてクイッと半分ぐらい飲むと、なんだか久しぶりの小学校の距離感も消えてしまった。丁度自治会の会長さんが、「ほれほれ、踊りなはれ。踊りコンテストがあるでえ。1等賞はテレビやでえ!!」とけしかける。盆踊りで踊ったりしたのはそれこそ10年ほど前なので、すっかり振り付けも忘れてしまった。
でも日頃ジャズダンスだの、ラテンダンスだの、バレエだのとレッスンをして、いたって踊り好きなので、お囃子が鳴り出すとムズムズしてくる。この辺りは、河内音頭が盛んで太鼓や三味線がロックの様なリズムなので、民踊を習ってなくても踊れそうな感じがする。
コンテストを意識してなのか、すごいおじいちゃんを見つけた。歌舞伎役者でもこんな派手な衣装は着んでしょう・・・といった出で立ち。全身黒地に雲か波かの逆巻く模様の着物に、ショッキングピンクの長い羽織、背中には浮世絵の美人絵が3体。ちょんまげのカツラをちょこんと乗せて、よたよた踊ってらっしゃる。この迫力、この気力。すごいね〜。90近くに見えて、足下もあまりしっかりしていないのに、盆踊りに対するこの気迫。そのおじいちゃんや、ねじり鉢巻きにハッピと股引のいなせな格好のオバサマ達、そろいの粋な浴衣姿のおバァちゃん達。金魚のおっぽのようにひらひらと兵児帯をひるがせて踊るちっちゃな女の子達。高学年の女の子達は、もう半幅帯を花文庫にして、青い色気を醸し出している。もちろん、下着のようなキャミソールに厚底サンダルの少女達もいて、盆踊りの開放的な夜のために、おしゃれをして着ている。
今年は交通整理扮装のままロック調で、うちわ片手に前の人のみようみまねで即興で踊ってしまったが、来年はちとリキを入れて盆踊りに参加してみよう。自治会の民踊の会とやらもあるらしい。ちょっと年輩の人ばかりで二の足を踏んでいたが、しっかり教えてもらって、粋な盆踊りを踊りたいものだ。
足腰立たぬまで毎年踊り続けて、名物バァちゃんになるとしょう。
ふふふ、どんな扮装でその頃は踊っているだろう。白塗りして、キショイおばぁちゃんやな〜と、陰口たたかれているかもしれないな〜。
♪ えんやこらせ〜ぇ、どっこいせっ ♪
TOPに戻る
5月30日号
「華」
今通っているスポーツジムのバレエレッスンで、いつも顔を合わせている若い子達と、ひとしきり話がはずんだ。着替えた後も話し込むほどの話題とは?
「くやし〜い!私には華がない・・・。」というぬきさしならぬテーマでありました。
ご想像の通り、本格的にバレエをしている人は、ジムのバレエレッスンなんかに受けに来ない。どこそこのバレエ団といったところに所属しているはずだからね。ジムのバレエ教室は、私みたいな踊り好きのおばさんかあるいは、体操をしている男の子、物好きなおじさん、ちょっとバレエをかじってみたいなと言う全く初めての若い女の子か、そして、昔からバレエを続けていたが途中挫折して、でもやっぱり、もう一度やり直して見たい・・・といった子達と、いろんな動機で集まっている。種々雑多、レベルもゴチャゴチャの集団だ。途中挫折組の子達は、未だバレエの夢去らず・・・と、とにかくバーレッスンだけでも受けて、バレエと少しでも関わっておきたいって感じで続けている。
この教室ではとびっきり上手で、いつも花に舞う蝶のような美しさで踊っている子がひとりいる。密かに私は彼女の動きを盗んでお手本にさせてもらっているのだけど、その子がロッカー室でポツリポツリと着替えながら話し出した。有名なバレエ団に所属していて、プリマの役に同期の子が抜てきされ、彼女は一ランク下の役に甘んじなきゃいけなかったこと。実力ではなんら負けることがなかったのに、結局プリマになった子は、「華」があったこと。くやしくて、くやしくて、結局そのバレエ団を止めてしまったこと。今思うとなぜ続けなかったかと、後悔していると言った話。勝ち負けが点数や記録ではっきりするスポーツと違って、舞台芸術の「華」はイカンともしがたいのは、私も10年以上毎年ジャズダンスの舞台を経験して、ポジション等でやっぱり悔しい思いを何度も味わったので、彼女の気持ちはひと事でなく実感できた。
バレエは特に、その外見の醸し出す雰囲気が決定的なのね。
顔がちっちゃくて、首が細長く、勿論体の線は細く、手足はあくまで長く。綺麗な白鳥になるには、アヒルやダチョウは、いくら上手に踊れても、観客を夢の世界へ誘えない。
上手くてもせいぜい脇を固めるといったポジションに甘んじなければならない。バレエの世界だけでなく、歌舞伎や踊り、劇団、宝塚、芸能界などもみな、人気があるというのは、その人に華があるということに他ならない。舞台に立つだけで、何もしなくてももう、会場の人を魅了してしまえる人というのは、いるのだ。玉三郎さんの舞台を見たときも、そうだった。舞台の袖にすっと立っているだけで、辺りを圧していた。会場の空気を吸い取ってしまえる吸引力だ。これはもう、その人の天性なんだろうと思う。勿論精進を重ねてこそのものだとは思うが、精進を重ねたから生まれるというものでもないのだ。
絵本にもこんな話はあったように思う。孔雀になりたい雀か鳩か、そんなとこらへんの鳥の話。美しくあでやかな孔雀にあこがれるけれども、結局雀はすずめ、鳩ははとのままがいいんだよ・・・と納得させられる話だったと思う。
世の中「分を知る」、「おのれの分際を知る」等という言葉で、凡人があらぬ夢を抱かないように、平和が乱されることがないように戒めている節がある。茄子の木にトマトはならず、鳶の子は鷹にならず・・・。そうよね、スターになる才を持った人は万にひとつ。そんなものばかりにあこがれて、自分の良さに気付かないってことあるよね。平凡な中に少しでもきらりと光る、何かってのがあるのよね。牡丹はあでやかで、華やかな大輪の花。遠くからでも目立つ存在だけど、野の花の可憐な、そばに寄らないと殆ど見過ごしてしまいそうな花が一生懸命咲いているのは、いとおしく感じて大切にしたくなる。世の中いろいろあるから、面白い。牡丹ばっかり、孔雀ばっかり、白鳥ばっかりだと、美しくても、ほんとあきちゃうもんね。と言っても、やっぱり白鳥になりたくて頑張ってきた子に、雀もいいとこあるよと納得できるまでになるには、いろんな体験を乗り越えていくしかない。
悔しい思いを肥やしにして、寒い雨風に耐えて咲かせた花は一段と美しく、清らかに咲けるってことね。
TOPに戻る
「なにわの掲示板」に
ご感想、ご意見を書いていただくとうれしいです。
kuniko@tecta.co.jp
極楽とんぼホームページへ