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「熊野古道・大阪編」
ひょんなことから「熊野古道を世界遺産にするプロジェクト準備委員会」が主宰する、「熊野古道五感之図作成プロジェクト」の歩く会におっちゃんと参加することになりました。
9月23日、お彼岸の中日でにぎわう四天王寺の南大門前に10時30分集合。
この会は名前はぎょうぎょうしいですが、要するに熊野街道、全長300キロ余りの行程を、「視る」「聞く」「触る」「臭う」「味わう」の五感を働かせながら歩いて、もう一度熊野古道の魅力を掘り起こし、さらに古道の自然を守ろうという企画です。
熊野街道は、平安の昔から帝や上皇が京都の城南宮から舟で淀川を下り、浪速の今でいう天満の辺りから輿に乗り大阪を南下して紀の国に入り、熊野詣での行幸をされた道のりのことです。
行幸は後々100回を超える参詣が繰り返され、その後庶民も「蟻の熊野詣で」と言われるぐらい、ゾロゾロと参詣する人が続き賑わったという事です。
「熊野」と言えば、紀伊山脈のふところに入った深山幽谷の「闇の国」とか「死と蘇生」の地として、なにやらおどろおどろしいイメージに溢れています。
実際、私達が以前、車で熊野や南部の方面を訪れて帰る際、その深い山の中のドライブウエイを超えるだけでも何度も恐い目にあっています。真っ暗闇の断崖を走るだけでも何だか背筋がぞっとしたし、夕方のまだ明るい時間にはどこからともなく霧ともガスとも言えないものに立ちふさがれたりして、毎回ほうほうの態で逃げ帰ってきた思い出があるのです。
その熊野と私達が住んでいる大阪住吉区とが熊野街道という参詣道で繋がっていたのでした。京都から熊野まで99を越す王子という休息地のような社が街道筋に点在し、往時のにぎわいの証がそこに残されているのです。
今回のプロジェクトは、大阪や和歌山から総勢15名の参加です。
「熊野古道を世界遺産に!」と発案した和歌山の小野田さんという女性は、このプロジェクトの事務局を務められています。最初4、5人の人達から始まったこの企画も、今回で5回目で、すでに延べ3OO人近い人達が他府県からも集まって歩いたそうです。何せ300キロ余りの行程ですから、何年がかりになるかとのことでした。 「五感マップ作成」の企画担当は、和歌山大学の近藤助教授です。今回の四天王寺辺りは上町台地と呼ばれていますが、大阪大学の院生時代に上町台地を巡っての研究をされていました。 長く大阪の地理と歴史を研究なさっている安井先生をオブザーバーに、古代建築に興味があるという建築家2名、若い女性インテリアデザイナー、その他、熊野の山を愛し、自然の保存に力を注いでおられる方々など、老若男女それぞれすごいパワーを発散されておられました。
「ひょん参加」のおっちゃんと私はその目的意識を持った集まりのパワーに圧倒されました。
今回は四天王寺から住吉の止々呂支姫(とどろぎひめ)神社までの7キロのコースを歩いたのですが、大阪市内のことですから全行程アスフアルトの道を自動車や自転車に追われながらの探索でした。
まず最初のチェックは、四天王寺・南大門の前に1×1.5メートルぐらいの苔蒸した平たい石が柵で囲ってありました。「遥拝石」と言うそうです。ここから遠く南の方にある熊野三山に向かって祈るための石だそうで、熊野までの300キロをこえる旅は当時ではやはり大変な行程で、そう気軽に全ての人が詣れるようなものではなかったようです。 五感を働かせながらの街道探索といっても、視覚はやたら多い車の行き来やビルの群に目を泳がせるしかなく、聴覚も車の音や自転車のベルの音、触覚はアスファルトの感触、臭覚も同じく排ガスの匂いと、大阪市内の熊野街道は無残な変わりようで、昔のよすがを辿るすべも殆どありませんでした。ただ歩道際に街道を現す道標がすすけて立っているのをみつけたり、本瓦に白い漆喰の壁の町屋がそこここに残っていたり、神社や塚の境内ではさすが苔むした匂いと樹齢300年の楠の木のうっそうとした香り、玉砂利の感触が、昔のたたずまいを思い起こさせるものでした。
車や自転車でなにげなく素通りしていた住吉区の熊野街道を今回は歩きながら、一つ一つの道標を視て、触り、街の歴史や地理の成り立ちを説明してもらいながら、テクテク歩いて分かったことは、現在の街が突然現れた訳でもなく、延々と時間のつながりを経て今日に至ったのだということが、当たり前ながら実感されたことでした。
通りの名前や、街角の名前には必ずその由来があって、それが多少なりとも訛ってきてはいても、しっかりと歴史を刻んできた結果、今あるということも・・・・・。
そして平安の昔から、遠くは京都から「蟻の熊野街道」と呼ばれるぐらい多くの人々がひと足、ひと足、歩を刻みながらこの道を熊野を目指して歩いたという事が、なにやら人間の営みがいじらしく、いとおしくなるような気持ちにさせられました。
朝の10時半に四天王寺南大門に集合し、第一王子の堀越神社、第二王子の阿倍王子神社、(ここで昼食、宮司さんの近辺の歴史のお話を伺う)、太鼓橋で有名な住吉大社などをお詣りして、午後4時半に大阪市の南の端の神社で今日の熊野古道を歩く会は終点を迎えました。熊野古道全行程300キロ余りのほんの一部、たった7キロの探索ではありましたが、快い疲労と達成感に包まれたのでした。そして今度は山深い熊野の辺りの古道を歩いてみたいなあ・・・との思いを強くしました。
近藤先生の上町台地からの落日の日想観の報告を伺って、日没に間にあうように四天王寺の西門にバスで戻り、彼岸の中日に丁度、鳥居の間に落ちる夕陽鑑賞を期待したのですが、あいにくの曇り空で叶いませんでした。
その後、オプション企画として設定された飛田新地「鯛よし百番」の、もと遊郭だった料理屋への異界ツアーに向かいましたがここでは、ぶっ飛びそうなカルチャーショックが・・・。
飛田新地異界体験記は次回に・・・。
お問い合わせは下記事務局へ
「熊野古道」を世界遺産に登録するプロジェクト準備会
事務局連絡先:〒640-0413 貴志川町神戸803-3
TEL/FAX:0736-64-1246(小野田真弓)
e-mail:rcon@sys.wakayama-u.ac.jp(近藤隆二郎)
「ビオトープ?」
道を歩いていて袋小路に突き当たったり、どうも様子が変だナ?と思い始めたら素直にUターンするか、方向転換したらいいのですね。行き止まりの壁をブチ破ったり、よじ登るなんて無理なことしないで、道を間違えていたのならサッサと引き返す方が、より迷わない為の得策でしょう・・・。
そんな思いがするのは、近頃「ビオトープ」という考え方が、広まってきているという記事を読んだからです。
私達のまわりでは、いつの間にかカエルやかたつむり、蛍、アメンボウ、ザリガニなどの小さな生き物を見かけなくなってきました。ほんの30年前ぐらいまで、ことさら田舎に行かなくても家のまわりにはそんな生き物が普通に暮らしていました。
田んぼや原っぱが整地され、池が埋め立てられてあれよあれよと思う間に、家ばかりが立ち並ぶ街角になって、狭苦しい世の中になってしまいました。仕方がありません、人間が増えてきたのです。いろんな動植物が淘汰されて、人間だけが繁殖しているのです。
食物連鎖の最高位に立って、恐いものなしで異常繁殖して好き放題している状態です。
地球上の歴史でも、それぞれの時代に1種類だけ繁殖した時期がいろいろあります。
地球が生まれたての炭酸ガスが充満している時代には、藻類が地球上を覆って大量の酸素を排出したというし、そのおかげで私達も生まれた訳ですから、何もこうでなきゃいけない、1種類だけ繁殖している地球は不自然だというのも、おかしいかもしれません。
もし人間だけの地球になってもそれはそれで、地球の歴史としての一過程なのですから・・・。
そして、人間だけの地球はやっぱり何らかのバランスを崩して間もなく淘汰されて、新たな生物が繁殖を始めることでしょう。
ただ、人間は自分たちの脳みそをほじくり始めた・・・。
あれれ、このままいくと、俺達はひょっとして終わりかも知れない・・・。
連鎖の頂上で浮かれて踊っている場合じゃないぞ・・・。
そんな知恵を持っている人間は、今、道を少し軌道修正しょうとしているのかな。
ダイオキシンにまみれ、公害にやられ、核廃棄物をたらい回しに捨てて、毒ガス弾の山をかかえて途方に暮れて・・・ひどい時代になったもんだと、みんなおかしいと思い始めたのですね。
「ビオトープ」は、雑木林やため池、小川、原っぱ、そんな雑然としたままの自然を残そう、あるいは、都市計画でそれに近い自然を再現して動植物を呼び戻そうという考え方らしく、生命の[bio」と場所を意味する[topos」を組み合わせた造語だそう。
各地でその考えに基づいた公園造りや街造りが行われてきているそうで、大阪市内の公園のハス池にも、何処からともなくやってきたトンボやキリギリス、カエル、タニシ、カブトエビなど20種類の生き物が生息し始めたそうです。
人間の欲はもうこの辺りでとどまっていたらどうでしょう?
飛行機はもうこれ以上早く飛ぶ必要もないし、列車も十分早く走っています。
ましてや宇宙の外にまで出て住むこともないでしょう。
これ以上望むと元も子もなくなりそうです。
小動物は小動物なりに、大きな動物はそれなりにそれぞれのエネルギーを消費していますが、人間だけが途方もなく余分にエネルギーを浪費しています。
人間にはそれだけの知恵を与えられたのだから、行き着くところまで行けば良いんだという考え方もあるようですが・・・。
あなたはどのように、思われますか?
「草原の風」
ロシアの通貨がメロメロになって外国為替の取引を中止しただの、株価が大暴落しただの、世界の市場経済は混沌として世界恐慌へとなだれ込んでいくかのような様相です。
かと思えば北朝鮮から突然のミサイル!「なに考えてんねん!」と開いた口がふさがらない・・・。
加えてこのところ世紀末を前にして、自然災害や人心の乱れなど暗いニュースばかりが席巻していて、打開策に誰もが決定打を打てないもどかしさを感じます。このままゴウゴウと大きな流れに流されていくと、どんな大きな滝に出くわすのだろう・・・。
金融市場がどうの、株価がどうのと経済の虚業に世界中が一喜一憂している狂想曲のまっただ中、広々とした草原の風に当たりたい思いで「大モンゴル展」に出掛けました。
狭い島国に住んでいる我々にとって、何が良いと言ったらあの一直線に広がる地平線の魅力じゃないでしょうか。 さえぎるものは遠くにかすむ山だけの大草原は、惹きつけられると同時に隠れるものもない丸裸にされたような恐さを感じます。
荷車やラクダの背に乗せただけの家財道具一式をかかえながら、草原の牧草地を求めて移動し続ける遊牧民のくらしは、自然に沿ったシンプルで温もりのあるものでした。
天を裂くビルも何もない空の広さ、雲の高さ、天の恵みをそのまま素直に受け取って生きていく替わりに、その厳しさもそのまま受け取らねばならない厳しさも同時に感じ取れます。
羊の毛をそのまま固めたような分厚いフエルトでできた包(ゲル)の中は、天井の中心から彩色した木の骨が四方に広がって、大きな蛇の目傘を拡げたようで、8畳から10畳位の広さでした。
入口から右方は台所用品やミシンなどが並んで女性席、左方は喫煙具や飾り棚がしつらえてあって男性席といった具合。
年中アウトドアのキャンプをしている気分で、思いっきり広い草原で一日中馬を駆って羊を追っていれば鬱屈したものも吹っ飛んで、帰って狭いテントの中で家族が肩寄せ合うのも温もりを感じこそすれ、個室にこもっていたり、部屋に入ってこないでなどというこのごろの日本の親子関係のようなぎくしゃくしたものはないのでしょうねえ。
会場では民族衣装や靴、道具類の無料体験コーナーがあって、その衣裳を着て牛糞を模したお手玉を熊手ですくって背負い篭にホイッとやってみました。牛糞は大切な燃料になるので、牛糞拾いの仕事は重要なのでしょう。
モンゴルの模様は、アイヌ模様によく似ていて、風貌はエスキモーの人にも相通じているようで、ユーラシア大陸からアリューシャン列島、アメリカ大陸へと地続きだったことが偲ばれます。
会場では土日に限り、モンゴル民族歌舞団のミニコンサートがあり丁度その演奏に出会いました。モンゴル独特の頬の中で笛を吹いているような声の出し方をするホーミーや、馬頭琴の演奏は、追分けに似たメロディーや浪曲のような太い声の歌など、どこか私達にもなつかしい感じです。
広いのどかな草原を思わせる、伸びやかな音の流れが印象的でした。
遊牧民のモンゴルでも、だんだん定住する人が増えてきているそうです。のどかに見えても、自然と向かい合った過酷な生活だというのは想像がつきます。
ダイオキシンや公害にまみれた便利な世界と、素朴で自然だけれど不便な厳しい生活と・・・。
先に行き着いたものはUターンをしたい気分ですが、後から来る人に「来たって何もないよ」と言っても、納得はしないでしょう。
「大モンゴル展」は千里・万博公園内、国立民族博物館にて11月24日まで開催です。
クリントンの言い訳
アメリカってすごい国ですね。
大統領であろうと誰であろうと、白黒をはっきりさせるんですね!
閨房の中の出来事であろうと、何であろうと・・・!
4年の歳月をかけて、何十億のお金をかけて。
クリントンは「不適切な関係」があったと5時間かかって大陪審の前で白状さされて、おまけに全国民の見るテレビの前で、告白させられて・・・。
それでも、「謝るところは謝ったんだから、こんな事は忘れて早くこれからのアメリカのことをみんなで考えようよっ!」と大統領職に対する執念は、あくまで強い!
日本の政治家なら告白する前に、いよいよやばいとなるとさっさと辞職してしまって、事細かに情事の成りゆきを話さなければならないような場所に引き出されること自体を何よりの「恥」とすることでしょう。 つくづく、日本とアメリカのお国柄の違いを感じますね。
それでも、力をもっている男に女は吸い寄せられるということは、人間のみならず、生物界では自然の摂理でありましょう。 アザラシのボスは、90頭のメスを従えていると言います。
強い子孫を残そうとするメスの本能が、強いボスの下に集まらせるのです。 クリントンは1番強い国の1番権力を持った人間です。しかも若くて、魅力的ともなると、チャンスがあれば彼と関係を持ちたいと思う女性は、90人を下らないでしょう。 自分の立場を考えて、彼もかなりの禁欲のコントロールはしてきたことでしょうが、時には魔が射したり、あまりの魅力についフラフラと・・何てことも無きにしもあらずです。
動物界では当たり前のことが、人間の社会でもつい最近までは一夫多婦の社会があったり、現在でも維持しているところも有るわけです。
なぜ一夫一婦制を人間の理性は採用するようになったのでしょう? 近代民主主義の社会では、機会均等が大原則です。みんな平等に男と女が行き渡るように配慮されたのでしょうか。 そして人間の子供は成人になるまでの時間がかかるので、夫婦が協力して子育てせざるを得ないからでしょうか。(役割分担であるとか、共同育児とかにかかわらず)
いろいろな理由があると思いますが、人間の特殊事情から一夫一婦制は生まれたと思います。 人間は「心」という、複雑な情感を持った生き物で、異性を共有するということにたいして様々な気持ちの襞を持ち、強いストレスを感じます。俗に言う「やきもち」、ジェラシーです。
昔から様の東西を問わず、複数の男女間の恋のもつれから来る様々な悲劇があふれています。そんな人間の理性から考え出された一夫一婦制も、やっぱり感情のすき間まで網羅することはできないのでしょうね。 権力も魅力も有る男を亭主にもったヒラリンは、完全にクリキントンを独り占めと言うわけには行きません。これはモラルだの、倫理だのといってもせいのないこと。
ただ哀しいのは、亭主が不倫をしていた・・ということが全世界の人の前にあからさまにされたこと。女のメンツが立ちません。
公衆の面前では、女の貫禄を見せて平然としていても、裏切られた悔しい思いで心の中は煮えたぎっていることでしょう。 今、クリキントンはバケーションを過ごしているそうですが、ムチ打ち10発ぐらいの刑はヒラリンから受けているかも知れません!
クリキントンさん! 「これからのアメリカを考えよう!」が、「アフガンとスーダンの爆撃」かいなあ〜?
自分のスキャンダルを爆撃で吹っ飛ばそうなんて・・・・・・。
朝顔に・・・
我が家のベランダには、狭いながらも赤いゼラニウム、ポインセチア、松葉ボタン、葵などが、上下に柵からはみ出るようにして元気に真夏の太陽を受けて咲いている。
ゼラニウムは、私が嫁入りの時、実家の庭から移した一鉢が25年の間に増え続けたもので、上部は全てゼラニウムにおおわれている。
外から4階のベランダを眺めると赤い薔薇に見えるようで、近所の人から「上手に丹精して育ててはりますねえ・・」とお褒めの言葉を頂く。その言葉を聞いて、私はとてもこそばゆくなるわけ。私ほどの不精ものはめずらしく、夏こそ朝晩水をやるが、普段は少しは栄養分があるだろう・・とお米のとぎ汁や、空になった牛乳パックにお水を入れてやるぐらいで、これも環境問題から、高富養化した排水をしないための一挙両得(!)作戦と言うだけの世話なのです。
ゼラニウムは世話いらずのとても元気な花で、それでいて春夏秋の3シーズン中次から次と朱赤の花を咲かせて、眼を楽しませてくれる。
ベランダの洗濯物を取る際に、ついタコ足の洗濯干しに引っかけて枝が折れたり、強風に鉢が倒れて折れたりする度に挿し木をしておくと、半年ぐらいにはクローン・ゼラが根付いて新芽を出している。とても原始的な花なのですね。
松葉ボタンも、近所の花上手の人に分けて貰った差し芽が育ち、今では鉢から長く伸びてベランダの柵の外でたわわに花が咲いて、主は顔を突き出して眺めないとピンクの大振りな線香花火のような花を拝めない。
不精ものの私に、極めつけのプレゼントがこの夏ベランダに咲いた。
去年咲いた朝顔のタネが落ちていたのだろうか・・ベランダの鉢が並んでいる奥の溝の所から朝顔の芽がぐんぐん伸びてきて、あれよあれよと思う間に赤紫の花を沢山つけてくれている。
なにせ、鉢の土が落ちて溝に貯まっている所から芽を出しているので、不精ものの「瓢箪から駒」ならぬ朝顔で、これじゃあ大きくなれないと、反対にせっせと溝と鉢の間に土を運び込んでいる始末。クーラーの排水が流れ込んでいたので、芽を出すチャンスに恵まれたのでしょう。雑草なんて殆どそんなチャンスを得て逞しく育っているわけだし、お前もなかなかやるじゃないかと、毎朝誇らしげに咲き競っている花たちを眺めて悦に入っている。
ベランダのガーデニングと言えば聞こえがいいが、我が家の草花は好き好きに咲いてジャングル状態。そこへ朝顔がベランダの柵に巻きつき、ゼラニウムに巻きつき、風に揺れながら、つるの先端は物干し竿にも巻き付きそうな気配。 これじゃあ「朝顔に、ものほし取られて、もらいざお」だ。 つるにはくるりと反転してもらって、隣のゼラニウムにからみついてもらう。 朝顔のつるの先端には「眼がある」という実験結果があるとか・・・。 その時の実験では50センチ離れた先に棒を立てておくと、朝顔のつるはどんどんその棒に向かって伸びていき、ついには巻き付いたという事だ。 つるはなよなよと柔らかい風情なので、ふにゃっとしてひ弱なものなのかと手で触れると、意外とガシッとした鋼のような堅い感触に驚かされる。そりゃ、考えてみれば、あの細い体で地球の重力と反対の方向にむかって、天に伸びようとするのだから、私達が逆立ちしながらジャンプしょうとするぐらいのエネルギーがいるような気がする。
朝、水をやった後、ベランダの草花の前にしゃがみ込み、上を見上げると何だか虫になったような気分・・・。 青い空にいろいろな葉の緑が折り重なって透き通り、赤紫の朝顔が宙に浮くパラシュートのようにポッカリ、ポッカリと咲き乱れている。
細い淡緑色のつるの芽が、「さあて、どっちへ行こうかな・・?」とゆらゆら風に揺れながら、思案している。
もう、夏も盛りを過ぎようとしている。
この朝顔達の枯れゆく姿が来るのは、哀しい。