似顔絵は
三浦さんに描いていただきました。
似てるか似てないかはご想像にお・ま・か・せ。(^^)

「なにわの掲示板」に ご感想、ご意見を書いていただくとうれしいです。

【10月31日号】【10月23日号】【10月14日号】【10月4日号】

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10月31日号



「黒いムース」

 地下鉄に、昼前ぐらいの割合空いている時間に坐っていると、女子高生が二人乗ってきた。真っ直ぐ進んで、端の席に坐っている私のすぐ横のドアーの前に来て、床にペタンと二人共座り込んだ。
この頃若い子は、よく地べたに座り込んでいる。道ばたとか、階段とかに。その辺りだと 別に気にもとめないが、ついには電車の中でも男子高生があぐらをかいて座り込む姿を見かけるようになった。そして、今日、女子高生がスカート・なま足姿でみんなが土足で行き来している電車の床に、足を投げ出してペタンと座り込んだのには、びっくりした。
それも、近くの席が空いているというのに・・・。

 私の方に向いて座り込んだ女の子が、カバンの中からブラシと鏡、ヘアームースの缶を取り出した。シュワーッと黒いムースを押し出して、ブラシで長い茶髪の上に何度も何度も鏡をにらみながら、塗り付けている。
あまりの奇態な光景に、私は眼が離せなくて、多分じっと見ていたに違いない。その女の子は、私の視線に気が付いたのだろうか、こちらを見て「にっ」と笑った!
あらま、なんて可愛い笑顔。
何の悪びれた風も、気配もなく、子供のような無邪気な笑顔でそのまま髪を梳いているので、つい、その笑顔に引き込まれて、「どうしたん? 黒くしてんのん?」と、声をかけてしまった。
「うん、学校追い返されてん・・・」とブラシを動かしながら、あっけらかんと答える。

 たぶん、校門の前か教室の中でか、生活指導か担任の先生に「茶髪は、学校に来るな」とでも言われたのだろう・・・。 黒いムースを塗り付けて、(なんでわざわざ電車の中で、床に座り込んでなのかは不明) これからまた学校に戻るのだろうか?
それにしちゃぁ、もうお昼時だけど・・・。
私は考え込んでしまった。
せえとも大変。せんせも大変。

 これは一つは、日本人がみんな黒い髪をしているので起きる問題だ。
金髪あり、ブルーネットあり、赤毛あり、ブラウンありと、もともとみんなの髪は色とりどりという国では起きない問題・・・。
みんな同じが当たり前、違う色は許されない国。
先生は、なぜ染めちゃあいけないと言うのだろう?
生徒はなぜ、髪を染めることでしか個性を表現しょうとしないのだろう?

 どっちもどっちの、狭い器でイタチごっこをしている。
十把ひとからげで生徒を管理しょうとする学校・・・。
同じような茶髪にパンツの見えそうなミニスカート・ルーズソックス姿で、おしゃれをして自己表現しているつもりが、みんな十把ひとからげの女子高生・・・。

 それともこんな若いこのおしゃれや行動に眉をひそめる私は、年をとったということなのだろうか?
私達が若い頃、サイケデリックやヒッピーファッション、ベルボトムのパンタロン、コッポリシューズに、良識ある大人達は眉をひそめていたものだ。
私達はそんな大人達に、「着れるものなら着てごらん?」と古い価値観を脱ぎ捨てるかのように、あたらしいファッションを意気揚々と着たものだ・・・。
今の若い子達は、そんなエネルギーを持って果たして着ているのだろうか? (この夏流行った、スリップドレスが、そうなの?)
ローマ帝国の爛熟期のような、すえた香りがそこここに・・・。

 いつの時代でも、大人は「この頃の若いもんは・・・」と眉をひそめ、行く末を案じたもの。私も、そういう気分になったということは、新しい時代が来ているということなのだろうか?



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10月23日号



「台風一過・公園点景」

 珍しく関西にも続けて台風が上陸した翌日、嵐の後の何喰わぬ顔のお天気につられて、 日曜日の午後娘と長居公園へ歩いた。
途中、シャッターの降りた店の前に吹きちぎられた街路樹の葉っぱがたまっていた。
ここの店は、ブランド物のディスカウント店で、新着賞品の発売日には、ずらっと 行列が出来るぐらい並んでいる人がいたのに、3週間ほど前、急にある日シャッターが おろされたままで、ウンともスンともお断りの告知もない。
反対にお客達が“修理の時計を預けたままだから返してほしい”などと受付番号や電話番号 を書いて張り出している。
倒産したのならその旨の、単なる休業ならそうと、店長なり、従業員が張り出してもよさそうなものなのに、 何の音沙汰もない様子。
それほど突然の、寝耳に水の状態だったのだろうか。 あわてふためいた、立つ鳥後を濁すようなシャッターの閉じられ方だ。 そういえば、クリスマスのろうそく立て(火がつくと天使がくるくる廻る)をこの店で買った。
娘とこの店の往時のにぎやかだったころの話をしながら公園に行く。

 長居公園の周回2.8kmのジョギングコースは、ランニングを着て本格的に走っている人、 コーチにどなられながら競歩のトレーニングをしている人。ちょっと早足程度に走っている人、 ブラブラ犬と歩いている人、初老夫婦、友達同士で歩いている人、インラインで滑っているカップルなど、 いろいろなペースで、いろんな人が利用している。
銀杏の葉が、濃い緑にやや黄味がかかった色が加わっている。 公園北側のうっそうとした枝がたれさがった、左右対称のお化け姿のヒマラヤ杉は、台風で枝が折れて そこここが切断され、ますます恐ろしげな不気味な姿で並んでいる。赤ずきんちゃんが、おおかみに 出会った森、こんな森なんじゃないかしら?

 ジョギングコースの周りの木は、南側のくすの木の群から始まって、東はけやきの森、北側がヒマラヤ杉、 西側はもみの木が多く、それぞれの森の風景が変わると空気も変わる。

 1年を通して好きなのは、けやきのある森で盛夏の枝葉ぶりも、冬の枯れ木立の時もけやきの姿の美しさ にほれぼれする。

 台風で枝葉が散っていつもより雑然としたコースをブラブラ、ちょっとひんやりしてきた空気を吸いながら 娘と歩く。
いつもは彼女がジョギングするのを自転車で伴走するか、サイクリングで駆け抜けるかなので、彼女と 2人こうしてゆっくり歩くのは久しぶり。
今年大学生になって、少し話の内容も、話ぶりも変わってきたような・・・・。
他愛もなくキャッキャ言っていたのに何だか面映ゆい。
突然、「もうすぐ19歳や、どうしょう・・・」と言う。
「あせるわ〜、19の次は20歳や・・・」
大海の船出を前にした気分なんだろうか? 私も若い時は、そういう思いをしたような・・・・。 やっぱり19から20は、あるいは29から30、39から40、49から50と階段を上がるかのように、 そして下りるかのようにそこの境でガタンと何かが動くのだろう。
確実に気分が違ったものになる。男性もこの年令代を気にするのだろうか?
近づくまでは、もうすぐもうすぐ、ああでもない、こうでもないと刻々と目の前に来るのを恐れているが、 それでも、ガタンと乗ってしまえばあとはスムースだ。
丁度、エスカレータのフロアの乗り換えのように。10年間は安泰。

 公園の中での子供達の一番人気は、新しくできたリズミカルに噴き出す噴水。
まるで、ダンスをしているように、一斉に噴き出したかと思うと止んで、次は1本づつ順番に シュッポン シュッポン。
かと思うと半分の列だけシュッポン、あとの半分もシュッポン、そして1列おきにシュッポンと、 何だかミュージカル・ウェストサイドストーリーのジェット団とシャーク団の群舞を見ている 様な感じ。
いつまで経っても見飽きない、ランダムでリズミカルな動きが、とっても楽しい。
この夏には、この噴水でパンツ一丁になった子供達や犬達が、キャッキャッと大騒ぎして遊び狂っていた。

 今、木の葉が噴水口に散っている中、ひとり、Tシャツにオーバーオールを着た3歳ぐらいの女の子が ズブ濡れになって噴水と追いかけっこしている。
側で見ているお父さん「もうこれ以上濡れたら、風邪をひく!」と気が気じゃない様子、ここへ来るなら 着かえを持ってこなくちゃ、黙って見過ごせる子供達はいないと思うよ。
私の息子や娘も、もっと小さかったら、きっとこの噴水でズブ濡れになったことだろう。

 夕暮れ近くなった噴水の前、娘と私は、ただ笑って見ているだけだった。


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10月14日号



「写真の人」

 額の髪をこてパーマで波打たせ、右耳の後ろからおおきな白い髪飾りをふんわり見せて写真の女のひとは立っていた。淡い色の地に小花と水の流れがあしらわれた着物を着て、 左後ろに籐の椅子が置いてあった。
セピアいろに変色しかかった艶消しのその写真は台紙に貼られていて、どこかの写真館で撮られたものだ。ふと、遠くの方に視線を投げかけた瞬間を捉えていて、女優のプロマイドのように美しい。

 私は小学校の時にこの写真をアルバムから見つけて、まじまじと見とれた。
「きれいやなあ、今のお母ちゃんと、えらい違いや・・・」と思い、写真の中の母親に憧れ続けた。「こんなきれいな人が、なんであんな恐い顔で怒れるんやろ・・・」とこの中の母親がホントの人だと思いたかった。

彼女は中国山脈の山間にある、岡山県・新見市で大正3年に生まれ育った。
 新見でも有名な旧家だったが、彼女の母親は赤ん坊を生んで9カ月目にその頃流行った腸チフスにかかり、亡くなった。その後祖母に育てられたが、指折りの旧家も子供の頃没落した。見識の高い祖母は、気持ちは昔のまま、暮らしは貧乏という生活の中で、「昔の田中はこうだった、ああだった・・・」という繰り言を吐き、それを聞きながら育った母も見識が高かった。「田中家を再興する」という気概に満ちていた。

 新見高女を卒業した後、子供のいない親戚を頼って大阪に出てきて、行儀見習いをしていた頃、父に出会った。
父はその家の遠い親戚で、うわさを聞いてか偶然かもう聞く由もないが、その家を訪れて母に出会ったのだ。 父はきっとその時、一目惚れをしたのだと思う。
あの写真の頃だ。楚々として、しかし凛と気強く目を見開いた美しい娘に、恋をしない男はいないだろう。 そして父は4人兄弟の末っ子で心優しい人だったので、返ってそんな凛とした気の強そうな娘に惹かれたのかも知れない。

 母は戦前から戦後にかけて4人の子供を産んだ。
関西の私立大出身の父は、旧帝大の学閥が強い一流企業の中で苦労した。
そんな父を見て一層母の負けじ魂に火がついた。
私達に厳しく勉強させ、良い成績を取ることが母を喜ばせることだった。いわゆる教育ママのはしりだ。私は母の気性の激しさに押されて、一応従順で勉強好きな女の子だった。けれど、大学へ通う頃には親の立身出世の価値観が、プチブル的でやるせなく思え、敷いたレールの上を走らされるのはごめんだった。丁度学園紛争が激しくなり始めた頃で、両親の官僚的な考えにいっそう反発し「国立一流大学・一流企業」「医者か学者」の御旗のもとで踊らされるのに、息が詰まった。親だけの責任ではないかも知れない。その頃の日本では財産のない人間が出世しょうと思えばそれしかなかった。

3番目の子だった私だけが、あからさまに反撥した。
でも一人ではできなかった。好きな人が出来て「渡りに舟」で生家の価値観からおさらばした。「国立一流大学・一流企業」じゃない人と結婚したのだ。
定年退職して、一流企業の看板をはずされた父の寂しさを私は見ていた。「格の下がった子会社」に天下って、毎日勤める父の、社内での気まずさや居心地の悪さを感じてしまった。優しい父だったから、気の毒だった。
だから看板じゃなく、本人の実力で生きていこうとしていた彼に私は惹かれた。 

 年頃になった私が嫉妬した写真の母の美しさは、無残なぐらい今は跡形もない。
3年前に父を亡くして、なにもかも気力を無くした。ほんとに父に甘えて生きてきた人だった。ひっそりと、1日中寝ているだけ。
気兼ねしながら暮らすのはイヤと、気の強さを唯一その点に張って、84歳の今でも一人で暮らしている。
母が価値を置いた一流企業も、リストラや倒産の憂き目に合って「親方日の丸」の寄らば大樹ではなくなった。
偏差値最高得点者の官僚も、今の日本を指導はできない。もっと多様な価値観を相対的に捉えられる人間が必要とされている。
100人いれば、100通り色のそれぞれの親子関係がある。
そして、同じ親でも兄弟それぞれが違った色の関係を結んでいる。
克服したと思っても乗り越えられない親への思い。
目の前でどんどん老いていく残酷な事実を見すえながら、彼女の夢はどんな幻想だったのだろうと思いをはせる。

お母ちゃん、時代は変わったよ。
でも、あなたが子供達に託したものは、そのままの形でなくても違った形でしっかり受け継がれていると思うよ。私が望む、望まないにかかわらずね・・・いつのまにかね。

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10月4日号



「飛田新地顛末記」

 四天王寺前からタクシーに乗って5、6分過ぎた頃、通りにみえるビジネスホテルの料金表の看板が見えました。
「A・1200YEN、B・1400YEN、C・1600YEN」とあり、えらい安いホテルやねえと話していました。
後でわかったことですが、あのあたりは西成区釜ガ崎のドヤ街で、日雇いの労働者が集まっているところでした。いわゆる木賃宿が立て替えになって近代的なビルに模様替えしたものだったようです。 世の中が不景気になる度に職を失った人達で釜ガ崎の人口が膨れ上がり、それに反比例して日雇いの仕事は減り、ホームレスの人がますます増えて・・・という構図です。

 飛田新地はその釜ガ崎と隣接した地域にあり、明治の末の大火で焼けた難波新地の遊郭を救済する名目で開発された新開地です。その遊廓の地域で昭和33年まで営業していた店を、「鯛よし百番」という料理屋が当時の建物の意匠のままで営業しているということです。熊野古道探索隊の夜の部・異界ツアーという感じでそこで二次会がありました。

 男性の間では、飛田新地がどういう場所であるか話題に上っていたようですが、私はこの歳まで、(いい歳です・・)今でも堂々と廓の「お茶屋」が営業されているなんてちっとも知りませんでした。「テレクラ援助交際」や「ソープランド」といった見かけは一応オブラートで包まれた「売春」はあっても、そのものずばりの廓は売春防止法でとっくに消えていると思っていたのですから・・・・。

 飛田新地は、都会のけばけばしいネオンはいっさい無く、軒を並べたお茶屋も質素な感じの木造二階建ての家で、軒先には四角の白い街灯に店の名前が黒字で書かれているだけです。けれど中を覗くと玄関の上がりがまちに年輩の女性が待ちかまえていて、その奥にピンクの蛍光灯に照らされて若いきれいな女の子が一人座っていました。どこのお店も同じように、年輩の女性と奥にはごく普通のOLのような子がピンクの蛍光灯に照らされてバスタオルや膝掛けを掛けて座布団に座っていました。その光景は女性にとってかなりショックでした。なんのいいわけもなく、カムフラージュもなく、そのものズバリで春をひさいでいる商売を見たものですから・・・。

 百番の店の前でタクシーを降り、後続隊が到着するのを待っている間、私たち女性三人は、ついつい近くの店先の光景をチラチラ見てしまいました。すると年輩の女性がなにやら口をとがらせて怒っている様子、どうやら「じろじろ見るな!」と怒鳴っているらしいのです。同性として見られたくないというか、商売のじゃまというか、そのあたりのことでしょうか?

 現実にそのような光景を見た目で「鯛よし百番」の、あたりをへいげいするような唐破風の軒先に赤い提灯がずらりぶら下がった元遊廓を見るとそのきらびやかで、大仰な建物や内部が、廓として営業されていた当時を思い起こさせて、息をのむ思いでした。
金銀、らでん、欄間の彫り物、ふすま絵と、あらゆる空間が何か施されて、豪勢というか賑やかというか・・・・。
 入ってすぐに天満宮を模した社殿に、ずらり女郎が並んだかと思われる「顔見せの間」。
次の間が日光東照宮を思わせる金きらの応接間。住吉大社の赤い太鼓橋を渡ると、紫苑殿、鳳凰、牡丹の三間続きの大広間。天井は紫貝を埋め込んだらでんの細工模様にシャンデリア、柱、欄間、書院にも彫刻や漆塗り、金箔などこれでもかこれでもかというぐらいの手の込み様。
日常生活の苦労や垢をさらりと忘れて、竜宮城か天国にいるような豪勢な気分で「性を楽しんでくださいよ・・」という魂胆ありありの別天地、異界でございます。
こんな豪華絢爛な部屋で、にわか殿様になった気分で男達は快楽をむさぼり、女達は身体を資本にうたかたの夢を売って過ごしたのでしょうか?・・・・・・・・・。

 しかし、この館だけ昔の遊廓の夢のような空間が演出されていても、周りの薄暗い茶屋では、演出どころか生の現実として、身を売っている女達が軒を並べているのですから、これはきつい・・・。
彼女たちを高見から見物して、同情するなんて失礼なことだと思うし、かと言って「売春」は人間史のなかでも一番古い職業の一つなんだからとクールにうそぶくのも少し違う・・・。愛と言う名のもとに、結婚と言う制度のもとに社会的に認められた夫婦と言う関係も、固定した売春関係じゃないか、アハハハと笑えもするが・・・。

 ソープやテレクラ援助交際と、オブラートに包んだ性にまつわる売買には事欠かない現代だけれど、やっぱりこの辺りの雰囲気は少し違う。ぎりぎりの生活の中で、包装紙も何もないそのものズバリ、露天で野菜を売るように性が売られている・・・。

 聖書のなかの売春婦、マグダラのマリアが村人達に石で打たれている現場に通りかかったキリストが、「罪なき者だけが石を打て・・・」と説いて誰も打てなかったという節がありました。
都会の繁栄の光の裏に、必ず存在する影。
ウエットにもクールにもなれない、ただやりきれない思いがふつふつと沸いた夜でした。


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