●大阪府泉大津市「我孫子」について

郷土史家の辻川季三郎さんの力作
「我孫子志」A5 500ページにも及ぶ。

突然の訪問にも快く迎えていただき、貴重なお話を聞かせていただきました。
(1996年8月)

■歴史編
弥生時代の最大の邑(むら)と言われる池上遺跡に隣接

●地名「我孫子」の歴史

 我孫子の地域は大阪湾に臨み、大津川の右岸の扇状地に発達した農業の先進地域であり、弥生期には、すでに農耕が始まり、この期の日本最大の邑(むら)として有名な池上遺跡と隣り合わせである。(大阪府立弥生博物館も近くにある)また、大和朝廷の初期に服属した珍努(ちぬ)の県(あがた)にも接している。国衛と国津小津の泊(泉大津港)と結ぶ要衛の地であり、大化の改新後は泉郡下泉に俗している。
 中世においては、今泉荘は我孫子荘ともいわれている。その初見は保安元年(1120)に当荘より、摂関家への正月用の薦を三十枚納めている記録である。 正治二年(1200)には、当荘が前駆所役をつとめ、建仁元年(1201)には当荘と槙尾寺との争論の記録などもある。「我孫子」の初見は南北朝時代の正平十六年(1361)に泉黒鳥の安明寺で造られる「こうじ」の販売先としてその名が見える(安明寺文書)。 「我孫子郷」は室町期に見える郷名で「北野社家日記」の長享三年(1487)七月四日の条に「西芳寺領和泉国我孫子」とあり、明応六年(1497)の預覚仙寄進地添状に「和泉国下条郷我孫子」とあり、室町期には当地に高野山奥院の灯油田のあったことも知られている。(高野山興山寺文書)享禄四年(1531)には我孫子苅田城も見える(続応仁記巻二)。
 近世では、「我孫子荘」として石橋泉州志をはじめ諸書に散見することができる。その地域は大津川右岸の下条大津、豊中、池浦、穴田、宮、虫取、長井、辻の各村を指す郷名である。
 近代では明治二十年に前記の長井村と辻村とが合併して郷名をとって我孫子村が成立した。明治二十二年の市町村制で穴師村の大字となり、現在は泉大津市の我孫子町から我孫子になっている。
(辻川季三郎・郷土史家)

  

  
駅名としては、南海バスの我孫子のみ。
昔は「我孫子荘」と言われていた地域


  
「我孫子五十人衆」とは、粋な名称。地域の結束の堅さを感じられる。
泉南地方は地車(だんじり)で有名。ダイナミックな祭りが展開される。

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