似顔絵は三浦さんに描いていただきました。
似てるか似てないかはご想像にお・ま・か・せ。(^^)
「なにわの掲示板」に
ご感想、ご意見を書いていただくとうれしいです。
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4月22日号
「あれから30年」
4月に万博の同窓会があった。
あの、日本中が熱気にうなされた「EXPO’70」の、とあるパビリオンに私はいた。
大阪万博・・・こんな事を言っても、今時、まわりの若い子は殆ど知らない。まだ生まれていませんでした・・。幼稚園の時でした・・。小学校のときだったかな?などと、生き残りのプテラノドンのように私を見るので、普段の生活では全く口にしたことがなかった。
でも、もうあれから30年。1900年に始まった世界万博も、今年2000年を迎えてちょうど100年ということになる。
1900年にパリ万博が初めて開催され、エッフェル塔はその時代の新しい建築手法としての鋼材をアピールするためのモニュメントだった。20世紀の人類の希望と、産業革命後の文明の進歩を高らかに歌い上げるために始められたからこそ、その時代、その時代の最先端の産業文化が誇示された。
1970年の大阪万博も、第二次大戦でペチャンコにノックアウトされた日本が、たったの25年でいかに素早く立ち直り、西洋諸国に引けを取らない国となったかを、戦争ではなく産業発展で「これ見い、ここまでなったんじゃい!」状態を自慢する博覧会だった訳だ。
「人類の進歩と調和」のテーマのもと、日本全国、希望と発展の夢に浮かれた。前年まで燃え上がっていた大学紛争も、この大きなうねりの中で色あせたかのように、くすぶり沈火していった。誰もが人類の未来を肯定していたかに見えた。
USA舘ではアポロが持ち帰ったちっちゃな「月の石」が展示され、人々は幾重にもパビリオンのまわりを囲んで辛抱強く待ち続け、その宇宙からのみやげ物をひと目見ようと躍起になった。会期中に、初めて原子力発電所から会場に電気が送電され、原子力の平和利用のファンファーレが高らかに鳴った。
当時からの建築学会の権威、東大の丹下健三氏率いるチームが設計した、鉄骨が交錯したお祭り広場の天蓋。
にょっきりと、その天蓋を破って顔を出している太陽の塔。
当初、その太陽の塔の制作者・岡本太郎氏が、東大の設計チームと真っ正面からぶつかったと言う。太陽の塔が設計の天蓋からはみ出すので、もっと小さくという要請を、太郎氏は孤軍奮闘、「芸術はバクハツだ!」といったかどうかは知らないが、その彼の情念の熱さに圧倒されて、理路整然・科学者チームは設計を変更して、天蓋に穴を空け、太陽の塔が顔を出すことになった。万博終了後、建築学会の粋をきわめたお祭り広場は撤去され、太郎氏の塔がひとり、太陽の光を浴びてキラキラと輝きながら両手を広げて無垢に立っている。当時、妙にアナクロ的で原始的な像だと思ったけれど、30年経ってもちっともくすんでなく、それどころか、ニカッと笑って天を仰いでる姿はおおらかで、永遠の明るさを私達に降り注いでくれている。
日本民族大移動と騒がれ、万博会場に183日間に延べ6400万人(当時日本の人口1億人!)の来場者を迎え、連日喧噪と驚きと、待ち疲れ、歩き疲れの渦が巻いた。科学の粋を集め、莫大な資金をつぎ込んで建てられた各パビリオンも、会期が終わるとうたかたの夢の如く消えた。
先日、1000年後に開ける為に埋められた松下舘のカプセルが、30年をめどに一度開けられた。6インチの小型テレビ、今なら妙に大型なひげそり器など、当時の最先端の技術で開発された物達が、懐かしいかわいさで現れた。科学技術は留まるところなく、進み、進んでいる。30年前のパビリオンは残っていない方がいいのだろう。
同窓会は会期終了後、5年毎に東京と大阪で交互に開かれ、今回で6回目を迎えた。
当時、22、3才だったこの世の春を謳歌した華々しい乙女達も、軒並み50を越えたオバサン達になった。もちろん、大層魅力的なオバサン達だ。当時の私達のユニフォームを着たお嬢さん達が何かと世話を焼いてくれた。「私達も、こんなに若くてきれいだったのにね」と、彼女達のように綺麗じゃなかったのに、あの頃の私の証拠などないので、図々しくまことしやかに言って、相槌を誘う。
当時、館長秘書だった方が社長になられ、今や押しも押されぬ財界の重鎮になっておられる。単刀直入に、当時あんなに美しかったお嬢さん達が、無惨なことになったという風なあいさつをされた。正直な人だ。自分も小淵さんのようにいつなるかわからない、明日のことはわからない・・・と、激務の合間に顔を出されたのに、透明感のある顔つきが印象に残った。40才ぐらいだったと思われる当時の野心的な風貌から、功なり名を遂げた氏も、30年を経たということだろうか。
あの当時、人類がひたすら追い求めていた進歩は、今、なんだか調和を乱しているような気がする。
30年を経て、私たちは人類単位ではなく、地球単位でものを考えないと、にっちもさっちもいかなくなってきた。
この後30年、私はいるかいないかわからないけど、宇宙単位でものを考えないと、たぶん、ミッチーとサッチーのけんかもおさまらないんだろネ。
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3月30日号
「いじめられっ子の歯ぎしり」
(Ru........)「ハイ、いのちの電話相談室です。」
「あの〜、もう、溜まらなくなってお電話したんです。」
「どうされました?」
「私、いじめられ続けているんです・・・。もう、どうにもやりきれなくて・・・」
「あなた、気のさわることを言ったり、したりとかしませんでした?」
「そんなつもりは・・・。あ、でも朝会ったときにあいさつとかしてなかったみたい・・。
サヨナラするときも、お世話になったわ、ありがとう・・・ぐらいはお礼言わなきゃね。」
「あぁ、そうですね。あいさつは大切ですね。分かり合えるまず第一歩ですから。ちゃんとあなたの気持ちを伝えれば、向こうも少しづつ分かってくれると思いますよ。」
「でも今まで機嫌良くつき合っていたのに、突然訳も分からず私をシカトして、だんまりを決め込むんです。私、もう、どうしていいやら、何がどうしたのか・・・」
「ふ〜ん、あなた自身気が付かなくて、相手に何か気に入らないことしてたりとか・・・」
「そういえば、ちょっと無遠慮に声をかけたりもしました・・・。ちょっとこれやってよとか、ここ、もうちょっとこうしたいんだけどとか、相手のこと考えずに一方的に、してもらうことばっかり要求していたかも知れません。」
「あぁ、そうですか。あなた自身そう言うことに気付いたのなら、もう問題はありませんよ。大丈夫。相手も一方的に押しつけられたら、そりゃぁ、気分を害しますよね。怒ることもできないから、シカトして、精一杯抵抗しているんですよ。向こうは強いように見えても、やっぱり弱い存在なんですよ。」
「そうですね。あまりにも私の意のままにしょうとし過ぎましたね。奴隷じゃないんですものね。大切なパートナーとして、それなりに相手の気持ちや思考に沿って、思いやりを持って接すれば良いんですね。」
「ハイ、そうだと思いますよ。お互い同志分かり合うために、一歩一歩、試行錯誤しながら、行きつ戻りつするうちに、いつの間にかすごい信頼関係のあるおつき合いができると思いますよ。単純な奴ほど、かわいいんですよ。」
「そうです。かわいい奴なんですが、どうも頑固でね。ちょっと気分を害すると、うんともすんともなんですよ。でもありがとうございました。うまくいくかどうか自信ないけど、もう一度、相手の気持ちになって頑張ってみようという気になってきました。助かりました。さようなら〜。」(ガチャン)
と、こんな風に悩み相談を自作自演しているうちに、気分が落ちついたきた。現実は決してこんな風にきれい事で分かり合えないことはわかっていても。
この一週間、パソコン野郎に(しまった、こんな言葉を発するから、ヤツは余計に気分を害するんだった・・・)、いやリンゴちゃんにすっかり振り回されて、あんたは一体、どうしたら言うこと聞いてくれるのん?ばかりだった。
パソコン道の修行を積むことなく、困ったときのダンナ頼み、のほほん、のほほん、たんぽぽ茶ばかりくらっていた。だが、世の中どっぷりパソコン支配の大波に呑まれて、わたしゃアップ・アップ。画像とシートをフォルダーに入れて、ftpで送る??? ふん?ふん?
あぁ、ダンナは一週間の出張。こんなことって、こんなことって。ftpが開かない。
あぁ、リンゴちゃん、お前はなんてかわいそうな、マイナーな立場。窓チャンばかりが大手を振って、「そこのけ、そこのけ、窓チャン通る」だよ〜っ!
私ばかりがいじめられっ子じゃなかった。リンゴちゃん、あんたこそが最大のいじめられっ子だ。
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3月11日号
「東京がなにさ! なんやっちゅうねん!」
新幹線がスピードを落とし始めた。
右側の窓に青い空の色を受けた、楕円形のガラス張りのソニービルが見えてきた。
これがあの、プレステで一人勝ちしている会社の本社なんかいな?とその偉容が余計に大きく見えた。
さまざまな交差点やビルや人通りがいよいよにぎやかになって、東京駅に着く。
が、駅のアナウンスやホームに降り立つ人々の多さで、「東京や・・、」と思ったわけではなかった。
新宿へ向かうために中央線のエスカレーターを乗った時に一瞬思った。「あ、ここは東京やった・・・」と。
周りの人みんな、一斉に左側に立ち並んでいたから。そのまま歩いて上るのもしんどいな〜という感じ
(結構な高さまであるんだもん)だったので、何となく違和感があるものの、
左側に寄って左手でエスカレーターの手すりをつかんだ。
JR新宿前の広場は、ちょうど二階ぐらいの高さにあって、四方を見渡すような空の広さを感じた。
次男から今朝方、しんどくて倒れているとの電話をもらい、急遽午後大阪を発ってきたのだ。何か買い出しをして
持っていってやらねばと手頃そうなスーパーを探せど、こんな新宿のど真ん中にあるわけないか・・・と、
高○屋を見つける。夕方の雑踏の中をくぐり抜けて
ムービングウオークに乗り、足早に歩いていて気がついた。誰も歩いていない・・・。
大阪の阪急電車のコンコースに日本で初めてのムービングウオークが付けられたが、
イラチな大阪人にとってムービングウオークは歩くモノとなっていた。東京人のなんとおっとりかまえた、
優雅さ。例によってみんな左側に立っていたので、さっさと歩いて追い越して行った。東京のみなさん、
歩いているのは大阪人だと思ってもらって、かまいません。
高○屋の地下の食料品売場といっても、お遣いものの商品ばかりで、今晩のお総菜の材料を求める所なんて、
ありゃしない。こんな所に住んでいりゃぁ、マメな人でも外食派になってしまう。ましてやズボラな次男坊はさもありなん、
毎日コンビニ弁か、吉牛だと言ってはばからない。奥のどん詰まりにささやかな青物、生物を扱っているコーナーを見つけた。
マメに買い物をして料理をすれば、新宿のど真ん中であろうが、栄養のバランスのとれた健康な生活が出来るというに・・・と
思いながら野菜や肉を買い、果物を何かひとつと探すとイチゴが1パック800円也。まるで宝石のような、
美しい輝きをみせたイチゴ。こんな芸術品のようなイチゴでなくていいのに。パンもホテル製のパンだけ。
旅行人のおおざっぱさでどんどん買ってはいたものの、毎日の暮らしではこんなのお手上げだわ。
店の人にベタな大阪弁で話すのが一瞬ためらわれた。できるだけ標準語に近そうなイントネーションで話してしまった。
なにわ女の威勢も、大東京の江戸っ子弁に一瞬にして自沈。「何を恐れること、あろうぞ?」後になって堂々と
大阪弁で話さなかった自分の気後れに、内心忸怩(じくじ)たるものが・・・。(ぐすん)
建築を勉強している次男にとって、すぐそばの都庁やオペラシティ、新宿パークタワーの高層ビル群は刺激的で丹下健三氏を毎日意識していたいのかも
しれない。が、毎日コンビニ弁当を食べて、高速道路が走り、ニョキニョキそびえ立つビルの林の中にいて、
どんな生活があるというのだろう?
ビルもでっかい。街もおっきい。人もわんさか。大阪のキタやミナミの規模の街が副都心として山手線沿いに7つも8つもあり、
その中心にもっとでっかい丸の内や銀座があって・・
と、次男は東京に魅せられたように話してくれる。「大阪に帰って何があんの?」と東京シティボーイはうそぶく。
そりゃぁ、人も集まり、情報も集まり、金も集まり、権力も集まっているとなりゃぁ、ますます東京は肥大膨張して、今や一極集中、
一人勝ち。
NHKの大河ドラマじゃないけれど、家康のたぬきオヤジにしてやられた、淀君の歯ぎしりが聞こえる。
でっかいことは、いいこと・・・じゃないのよ。
要は、中身、中身。身の丈で充実と言いながら、中身もなけりゃぁ、こら、ちと寂しい。
大阪、すっきゃねん。とお題目だけじゃ、ダメね。
しんたろーはん、思い切ったことしたはる。ノックアウトさんの後のふーちゃん、さぁ、どれだけ頑張れますか。
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2月18日号
「500円玉」
ジャズダンスのレッスン前に自動販売機でCCレモンを買おうとしました。
そこのは500ccのが120円なので、いつも梅田のそこで買います。
ふと自販機の足元に、光るコインが見えました。どうせゲームのコインかなんかだろうと拾い上げたところ、500円玉でした。「やったぁ〜! もうかっちゃった!」と、わたくし喜びました。ちなみにわたくし、小学生の時、道で85円拾ってわざわざ交番所に届けにいったにもかかわらず、警官にポッポナイナイされてからハダカの現金は拾っても届けに行く必要はないのだと、学習いたしましたので・・・。(でも、万札が沢山だとちょっと考えるかもね・・・)
そんでもって、その500円玉でCCレモンを買おうとして自販機のコイン入れに差し込みました。裏側がこちら側になって見えました。な〜んにもなくて、同心円が何重にも輝いて光っているだけでした。
「あれれれ?」 慌てて落ちかける500円玉を引き留めて、引きずり出しました。
「む〜ん!! これは何ぞ?」しげしげと観察してみると、表は完璧500円の模様。裏は
ずんべらぼんなのでありました。「ははん、これがいま、巷をにぎわしているニセコインなるものか?」おおよその察しがつきました。
そして、ほんとにこれが自販機の中を通り過ぎて500円と認知されるのかどうか、とても強い誘惑にかられました。
入れてみよかな?と一瞬思い、そしてまわりに隠しカメラか防犯カメラがないか思わず探してしまいました。銀行やコンビニじゃないので、そんなもんある訳ありません。が、そう思ったことで、もう、できなくなりました。
カメラを探すというところで、自分の中で、これははっきりとした犯罪だと、理性が反応したからです。
単なる好奇心の勢いで、そのままチャリンと入れてたら、なんの罪悪感も入り込む隙がなかったかもしれませんが、カメラを探したという犯罪自覚のおかげで、認知実験はお蔵入りとなりました。
その後、レッスンですったもんだしているうちにそのコインの存在を忘れ、家にまで持って帰ってしまいました。偽札ならまだしも、500円玉だし、今更警察でもないだろう・・・と処置に困り、居間のこたつの上に置いてそのまま忘れていました。500円の刻印を上にして。
2、3日して「そうそう、にせコインがね・・・」と思い出して話し始めると娘が「おかぁさん、なんでおこたの上に置いてたんよう! 私、コンビニで払おうとして台の上に置いてびっくりしたやんかぁ!!」万年金欠病の娘は、おこたの上の500円玉をこれ幸いと、ポッポナイナイしていたのであります。店員に気付かれないようサッと取り替えたものの、「心臓バコバコしたわぁ!!」と私を非難いたします。母が母なら、子も子。お恥ずかしい次第でございます。もうちょっとで、娘をニセ金使いの犯罪者にしてしまうところでした。
やっぱり、これって警察に届けなあかんのでしょうか?
なんせ、東京ではニセ500円玉事件のあまりの多さに辟易して、自販機はもう500円玉は使えなくなっているとか?
韓国の500ウォン玉の改造らしく、日本円で約50円のものを自販機に入れてすぐ取り消しをすれば、別の真正500円を手に入れることができるというものらしい。
10倍の価値になるおいしい変造で、おバカな自販機を相手にしたところが、ミソですね。
この世に貨幣が存在し始めた頃は、かなり難しい技術が必要で権力者や支配者のみに限られた貨幣造りも、今や印刷技術も、鋳造技術も追いついて、ニセ金づくりはいたちごっこの様相。でも民間では設備投資の割には成功する確率も少なそう。
TVの番組で国をあげて弗のニセ札作りをしているニュースがありました。ロシアに持っていけば、あまり弗になじみがなくて、結構やすやすと成功するらしいです。
その国の貨幣としてその国の政府が責任もって作るからこそ通貨の価値があろうものを、れっきとした国が、よその国の貨幣を造るって、笑い話になりそなほんとの話。
それにしても、ニセ500円玉、持ってるだけでも後ろに手が廻るのでしょうか?
その辺の川に投げ込みまひょか。しっかりと指紋を消して。
せやけど、ここでこんなこと書いてたら、即、捕まりますなぁ・・・。
横でダンナが、「使うてないんやから、犯罪にならんやろぅ」と言うてます。
ほんまやろか?
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2月15日号
「きんさんとお日様」
暖かいね お日様
日だまりにいると ほんわかとして
暖かいね お日様
もうこれ以上 望んじゃいけませんですねぇ
台所には 湯気の立つ粕汁
大根 人参 鮭 玉葱
ぐつぐつ柔らかくなって
ほくほく 口の中でもだえるのさ
おいしいねぇ、ありがたいねぇ
冷たい風が吹くベランダに洗濯物を干したあと、ふと見ると足元にこぼれる日差しの中で色鮮やかに咲く春の花。この間の小春日和の休日に買い来て、寄せ植えをした花達。このところ寒いのでちょっとかわいそうなことをしたかなぁとながめていたら、お日様がじんわり、ほっこり、こんな気持ちになりました。
多くを望まず、欲ボケにならず・・・と日頃あれこれ思う自分をいさめています。
と、思っているのもつかの間、きんさんの教訓とやらが、頭をかすめます。
107才で先日亡くなられたきんさんは、ほんとに明るくてユーモアたっぷり、当意即妙な受け答えに、みんな人間の可能性を信じ、老いの不安を吹き飛ばしてくれそうでした。
あの方は特別お元気で、ずっと丈夫に生きてこられたんだと思っていたのですが、そうではなかったのですね。
97才位の時、もう中度の痴呆がきていて普通の生活を送るのは難しい状態だったそうです。ところが99才の時、双子の長寿ばぁちゃんとしてCMに出演したあと、急にマスコミで取り上げられ人気絶頂のひっぱりだこになってきました。数多くのイベントに出演したり、歌を歌ったり、記者会見をしたり、皇室の園遊会に出席したり・・・。
普通の人でも目が回るぐらいの活躍ぶりです。そんな中で、きんさんはいろんな刺激を受けて、脳細胞が復活してきたそうです。人間は1日10万個の脳細胞が25才を過ぎた頃からバラバラと崩れ落ちて、留まるところを知らないなんて怖ろしい話だけど、普段の生活の中で、人は脳細胞の3割しか使ってないらしく、毎日崩れていっても毎日違う脳細胞を活性化していけば、まだまだなんのなんの、と言うことらしい。
100才を過ぎて、毎日1、5キロの重しをつけて足の屈伸のトレーニングを重ね、最近では600回の屈伸をこなし、お習字の練習紙は机の上に50センチ積み上げられていました。
う〜ん、人間の可能性は幾つになっても、開拓されるものなんですね。
余り多くを望まず、ありのままにさりげなく、なのか、目一杯頑張って、可能性を限りなく追求してなのか、やっぱり揺れ動く、若くもなく、年寄りでもない、この私。
足るを知って、しかも可能性を信じて。二律背反。
よ〜い、ドン!で背中合わせのむかで競争だね、まるで。どっちが勝つかな?
やっぱり、あちこち悪あがきしてぶつかりながらまだ可能性を信じている、浦島花子か、はたまたドン・キホーコの姿が見えますね。
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2月2日号
「忘れない 忘れられない 忘れたい」
どんよりとした雲の冬空を眺めていたら、向かいの棟に住む人が北側の窓の結露を拭いているのが見えた。我が家の北側の窓も、朝起きるとガラス窓にびっしりと露が付いている。同じ北側の納戸にしている部屋はどうもないので、夜中の呼吸の水分が、冷たい外気に当たって目に見える形で現れている。ベランダの君子蘭の鉢にかぶせている風よけのビニールの中にも水滴がついていたりする。動物も植物も、呼吸するって湿気が漂うことなんだなと、その時思った。
そういえば、生きるってことは、ウエットなことなんだ。特に人間は笑ったり泣いたり、その度に涙が出たり、鼻汁、よだれ、と水風船をつついたように水分が滴る。
泣くから悲しいのか、悲しいから泣くのかその辺りは行ったり来たりではっきりしないが、
汗をかいてすっきりするのと同じように、涙を流して悲しいことは忘れるという方法がある。だから涙も出ないぐらい、あるいは涙も涸れるぐらい悲しいことは、なかなか忘れられないかも知れない。
阪神大震災もあれから5年を迎え、大阪に住む私は毎日の生活の中で忘れてしまっていた。本棚が倒れたり食器が割れて落ちた程度なので、そりゃ、忘れてしまう。
けれど、家族を失い、家を失い、仕事を失った人達には、1・17は忘れるに忘れられない、深いくさびになっていることだろう。
去年の6月に私は母を亡くした。84歳で、一般的には天寿を全うした自然な死として迎えられる。けれどもう8カ月になろうとするのに、ふと、母のことを思い出すと私は突然泣き叫びたい衝動にかられる。一晩眠ればいやなことは遠くなるノー天気な私ででさえ、ましてや順当な母の死でさえこんな具合だから、一瞬のうちに何もかも失った人達には、想像を超える忘れがたいことばかりだろう・・・。
でも、ようやく5年という、時の日にちぐすりで薄らいできた気持ちを、また上塗りするような新聞やテレビの大見出し。忘れられないけど、忘れたいという人の気持ちは、どうなんだろう?
一方で人間の愚かな欲で招いた戦争の悲劇など、二度と繰り返さないために風化してしまってはいけない、忘れちゃいけないこともある。人間は学習しなくちゃいけないから。やった方は忘れても、やられた方は忘れないもの。難しいね。
記念館や博物館、美術館はそういう目から見ると、風化して時と共に殆ど忘れ去られていくものの中から、やっぱり生き続けているものが、残されているのだろう。
奇妙な事件があった。10歳の時に誘拐されて9年間余り幽閉されていた女の子。鍵はかかっていなかったのに、逃げ出せないでいた女の子の恐怖感が痛ましい。彼女にとってこの恐怖の9年間を忘れていくのは、とても大変なことだろう。
でも、一枚一枚恐怖のシールをはがしていって、一枚一枚温かい羽根をかぶせて気長に癒していくしかないだろう。痕は残ったにしても、傷は治る。その痕も、いつか薄い膜が張って遠い忘却のかなたに去るように、テレビのワイドショーや週刊誌は、傷口に塩を埋め込むようなことは止めて欲しいと思う。
いろんな忘れたいこと、忘れられないこと、そしていろんな忘れちゃいけないこと。
いろんな異論が水の流れの中で、あるものは淵にとどまる岩となり、あるものは転がる小石となって果ては小さな砂粒になるのだろうか。
底に沈んで忘れ去られたはずの砂粒が、ある時差し込んだ光に照らされてきらりと光る。
あぁ、こんな事もあった、あんな事もあった。風化した「時の砂」になれば、ただきらきらと光るだけ。
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1月11日号
「初風呂・浮世風呂」
お正月の2日、近所にある銭湯の初風呂に出かけた。
朝風呂、しかも初風呂なんていう優雅なひとときは、久しぶり。
年末のバタバタがたたって、今年の元旦は朝から寝込んでしまい、2000年の幕開けにしては何ともしまらん状態で迎えてしまった景気直しにと、ベランダから家族連れが洗面器カチャカチャいわせて車から降りてくるのを見て、思い立った。
家族を誘ってもこの計画に乗らず、仕方なしに一人で洗面器かかえて出かける。
銭湯はもう何年も行ってないので、今いくら位するのかもわからず、1000円札を握りしめ、石鹸カタカタ、シャンプーゴトゴト鳴らしながら、「神田川」の♪あなたの優しさが怖かあった〜♪てな感じでいそいそと出かけた。
銭湯の玄関には、まっさらなのれんが掛かっていた。○乳石鹸の広告が入ったものなので、たぶんSP商品として、全国津々浦々同じモノが掛かっている可能性がある代物だ。
かっては、お国柄、土地柄を表したその風呂屋特製ののれんが掛かっていたりしたのを、写真雑誌なんかでよく見かけたものだけど・・・。
それでもここの銭湯はまだ昔の面影を残していて、玄関の開き戸を入ると左右に下足入れの
木製の小さな引き出しが並んでいる。杉の木片の番号札をはずすと、カチャンと鍵がかかるヤツだ。番号札を無くさないように洗面器に入れ、右側の戸をガラガラと開ける。左は男性。番台のおっちゃんが、入ってすぐの壁際に座っている。10年ぐらい前は、まだ若くていややなぁ〜と思ったおっちゃんも、すっかりフケてちょっとホッとする。
裸になって着替える場所だから、番台の人は男でも女でも、老けている方が何となく安心する。若いとなんだか品定めをされているような被害者意識で、出ているお腹をちょっと、息を吸ってへこませたりしてしまうのだ。男のお客はそんなこと思わないのかな〜。若い娘が座っている方が、うれしかったりするのかな〜。
いずれにせよ、番台のおっちゃんはこちらが気にするほどお客の裸にいちいち反応してるわけ無いと思うが・・・。
初風呂らしく「おめでとうございます。」とあいさつして1000円札を差し出す。「シャンプーもします。」と言っておつりをもらったのが640円だったので、シャンプー付き入浴料は、2000年1月2日現在、360円也。
とにかく久しぶりの銭湯に気後れして、番台から一番遠い、男客からも絶対見えそうにない様なところのロッカーへ行く。番台の近くのロッカーはお金を払う時にちらっと、見えたりするんだから・・・。(実際反対の立場で、見てしもたもんね)
天井は部分的にでも、網代張り。床は籐張り。木製のロッカーにはゴムひもの付いたアルミ製のような四角い鍵がついていて、これも横の出っ張りを押すとカチャンと上に飛び出して外れるヤツ。
スポーツクラブの明るくモダンなロッカールームとは違った、じゃぱん・エスニックの香りがムンムン。ええなぁ・・・。
衰退する一方の銭湯屋さん業界は、現代人の生活ニーズに合うよう設備投資を余儀なくされ、ここも、中は色々な浴槽が揃えられている。
水風呂、泡風呂、電気風呂、季節風呂(五月の節句は菖蒲、冬至には柚子風呂、その他、牛乳風呂やレモン風呂など・・・)そして、サウナにスチーム。
これだけいろいろ好きに入って、360円。安いリラクゼーション・スポットな訳なのだ。
一人暮らしの若者や、孤独なお年寄りも含めて、裸のつき合いの出来る街のホット・ステーションな訳なのだ。
朝10時頃だというのに、初風呂とあってにぎわっている。
サイ、ゾウ、トド、ゾウあざらしといった威風堂々たるご婦人方、女もほれぼれするような色白の綺麗な肌のひと、おっとすごい剛毛が向こうから前も隠さずスタスタと・・・。かとおもえば、おいしそうな柔らかい肌がプリプリとはじけそうな2才ぐらいの女の子が、泡だらけになりながら母親の手から逃げている。
う〜む、この裸の女達の生態を、男の子に小さいうちにしっかりと目に焼き付かせて置くというのは、とても大事なことのように思えてきた・・・。
年をとって、カバのような垂れ下がったお尻のおばぁちゃん、若い人の美しいおっぱいの隆起、人間の身体はこのようにして歳と共に変化していくのだということを、核家族で育つ子供達は小さいときから見ておくべきだな〜と、湯船の中でつかりながら思うのだった。
小さな坪庭には、風呂屋のおかみさんが丹精して育てたのであろう、白梅と黄菊の鉢が湯気におおわれたガラス窓越しにリンと咲いている。
3畳位の小さなサウナ風呂に入る。先客が3人。この人達は顔見知りらしく、頭にターバン、顔には目だけを出したチャドルのようにそれぞれ濡れタオルで完全武装して、無事に過ぎたY2K問題を話し合っていた。
「私、夜中に電気がみんな消える夢を見たわ。それも<ブチッ>いうて、大きな音立てて消えたんやわ・・・」
「もともとな〜んも起きひんと思うてたわ〜・・・」
巷の隅々まで、Y2K問題はお騒がせだったようだ・・・。
砂時計の3分が過ぎたのを見計らって、熱くてたまらずサウナを出る。水風呂のところで、おっかなびっくりでチョロチョロと手先、足先に水をかけていると、先程のサウナのサイのおばちゃん、ザッブーンと水風呂に入って四つん這いになって赤く火照った全身を水につけ込む。ウワオー、ダイナミック! 心臓麻痺おこらんかいな?
私も思いきって、ザッブーン・・・とは入らず、洗面器の水を肩から一気にかける。
フエーッ、冷た! それでも、何かしら気持ちいい。もう一回、ザッブーン!
芯まで冷えたところで、再びサウナへ。
95度位の熱気がモワーッと冷えた身体を温めてくれる。このときが一番気持ちいい。
温めて、冷やして、もう一度温めて。体中の血が凍ったり溶けて流れたり、逆巻いたり。
うっ血した肩こりと頭痛も、忙しい血の大洪水で、どうやら押し流されたような・・・。
あぁ、すっきりした!
初風呂・360円。「ええ仕事してます!」
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