似顔絵は
三浦さんに描いていただきました。
似てるか似てないかはご想像にお・ま・か・せ。(^^)
「なにわの掲示板」に ご感想、ご意見を書いていただくとうれしいです。

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9月22日号



「21年前の若き私に」

 引き出しを整理していて、長男の1歳半から4才過ぎ頃までの、育児日記が出てきた。
今、長男は24才だから、19年から22年位前のものだ。
長男が小学校に入学する前位まで、時折々に書きつづった日記3冊の内の、行方不明になっていた2冊目のもので、この間には次男が生まれ、長女が生まれして、一番母親として忙しかった頃だ。
私は毎日の出来事をずっと書き続ける几帳面さも、根気ももとよりないので、気ままに、ちょっとした感動、発見、驚き、そして時には持っていき場所のない、どうしょうもない気持ちの吐き溜めを、日記につづったりしてきた。

 青春まっただ中の頃の、先の見えない不安、鬱屈、堂々めぐり、片思いの繰り言、日毎に変わる狂喜と落胆などの、情緒不安定な心の排出物のような日記は、後になって読むと恥ずかしさを通り越して、あほらしくもなったりする。なんと未熟な、世間知らずな、独りよがりのことを、あれこれあれこれ書いて・・・と怖いモノしらずの傍若無人ぶりにあきれたり、感じ入ったり。こんな日記は、もともと人に読んでもらう為に書いたものじゃないから、酔っぱらいの吐いたゲロが、電信柱の根元で日に乾いて無惨な姿をさらしているようなものとして、割り切ってしまった方がいいと自分に言い聞かせている。
実際、実家の押入に忘れてしまわれていた学生時代の日記を、これも大学生だった次男にいつの間にか読まれていたのには、冷や汗・脂汗ものだった・・・。

 その点、育児日記は、子供の父親にも読んでもらい(単身赴任でいない時や、忙しくて子供と顔を会わせない時が多く、母子家庭みたいなものだった)、ひいては大きくなってから子供にも読んでもらおうという気持ちで書き溜めていたので、ギャッと赤面するような事は書いていない。
それどころか、もう忘れてしまっていた20年以上も前の、若い母親の必死でひたむきな子育ての日々が書かれていて、今読んでも、いや今だからか、感動してしまった。
28才から2年ごとの出産で、32才の時には4才、2才、0才児を抱えて、人生の中で一番ややこしかった時期のものだ。
日記の中で目立つのは、「風邪を引いた」、「熱を出した」、「水疱瘡になった」、「百日咳になった」などの病気関係。
「転んで頭を打った」、「おでこを切った」、「お風呂でおぼれた」、「もうちょっとで車にひかれそうになった」などのケガ関係。
おむつを外して、ウンチやオシッコの練習をしている頃の、畳や廊下での失敗談の数々。
言葉を覚え始めた頃の、カタコトの魅力的なせりふの数々。

あぁ、なんと毎日がキラキラと輝く素晴らしい日々だったこと!
「子供は3才までに、一生分の親孝行をする」という言葉を聞いたことがあるけれど、日記の子供達を見ているとほんと、この頃の子供は「天使」だと思う。
実際の大変さは忘れてしまって、「なんと私は幸せな若い母親だったことよ・・・」と、遠い昔の自分に羨望する。
この羨望は、子供達が飛び立った後の空っぽの巣を恨めしく思う、空き巣症候群のまっただ中に、私が今ある証拠だろう。
私を必要として子供らがしがみつき、そしてそれに必死に応えていた若い自分がいたことに気づく。
子育てのさなかにいる時には決して感じとれない、幸せの青い鳥達。

7月に3才になったばかりの長男の、9月のある日の育児日記から・・・。

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 新聞のひげそりの広告を見て「これさわったらあかん。おとなだけ、さわるの・・・」と  剃刀を指さして言っている。
 「カックンも、おとなになったらさわる。カックン、おひげないもん・・・。」とぶつぶ つ一人で言っている。
 「カックン中学か高校になったら、おひげ出てくるよ〜」となぐさめると、
 「カックン、きいろのおひげやねん・・・」と、あごの辺りをなでさすっている。
 卵をむいたようなつるんとした、まぁるい顔からは、ちと想像できない。
 ア〜、カックンが髭を剃りだし、パンツを洗濯させない頃って、どんな頃?
 こっちはもう、オバンですなぁー。
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と、ある。オバンですな〜とは情けない。
こちとらはもう、オバンもオバン、長男も髭が生え出す時期をとっくに過ぎて、大学も卒業してしまった! この頃31の私が、50過ぎの今の自分を想像出来なかったように、今、私は70過ぎの自分を想像できない・・・。

それから10日後の日記から。

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 昨日、9月17日は中秋の名月。
 夜中の2時過ぎから、17年ぶりの満月と皆既月食がぶつかるというので、パパは眠い目 をこすって、夜中に起きて目撃したとのこと。
 今度の満月と皆既月食は、19年後とのこと。
 その時、私は50才のオバン。
 月に誓ってわが人生を豊かに暮らし、その時、わが半世紀をふり返ってみたいもの・・。
 カックンは、芳紀22才の青年であります。

 夕方、2台の自転車で、長居公園のうっそうと繁る緑の中をサイクリング。
 ゆらゆらと落ちる夕陽を追いかけて、すがすがしいひととき。
 パパとママとカックンとノリクン・・・。
 この世界に「稟とあり!」って感じでした。
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ふ〜ん?月に誓ってわが人生を豊かに暮らし、その時、わが半生をふり返ってみたいもの?
およよよよ。こりゃぁ、困った。う〜ん、ごめん。恥ずかし!
どないしまひょ。21年前の私に、どない言うたらよろしいのん?
なんとお答えすれば、いいのでせうか?
どうにかこうにか、生き延び、なんとか無事歳々、暮らしております・・・とでもお答えいたしますです。ハイ!

やっぱり日記っちゅうもんは、あとで読み返すといろいろ不都合が出てきますもんで・・。
それにしても、オバン、オバンという言葉が多すぎる!
オバンで悪かったなぁ〜〜! そら、あんたは若いもんなぁ〜!
(このなにわのオバンのガリ版日記も、後で読み返すと、メチャ、恥ずかしおます。)



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9月10日号



「旧友からの便り」

8月19日号のガリ版日記を読んだと、今は千葉に住む、30年来の友達からメールをいただきました。
3ヶ月違いで、彼女も母親を亡くしたばかりとのことで、ことのほか身にしむ便り、みんな同じ思いをしながら生き暮らしているのだという感慨を強くしました。
前回のガリ版日記との往復書簡てな感じで、ここに紹介させていただきます。

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9月になってすこうし、秋らしくなりました。
我が家の豪華庭園からも虫の泣き声がにぎやかに聞こえております。
元気になりましたか?
なべちゃんのHPときどき、覗かせて戴いています。
(なにわのおばちゃんの旧姓渡辺→なべ)
なべや堀が今、何をしているか分かって、まるで個人当ての便りを読むように、 覗いていました。
(私のことも書いたのも見ましたよ! 照れるなーー。でございました。)
ところがここ数ヶ月、なべの日記が更新されなくて、なにかあったかなーー とは察していました。
やっぱり・・・・・って思いました。 やっぱり 順番って思うしかない。 そして順番って幸せなことだとほんと、思います。

なべとは同い年だし、兄弟の数も似ていたし、偶然とは思えない。 私もこの3月に自分の母を84歳でなくしました。
宝塚の帰り、お茶を飲んでいる時一人で暮らしているお母さんのこと心配していたよね。 それでも気丈にしっかりしているって。
私の母は脳梗塞で倒れてから、結局1年後に亡くなりました。 初めは口も少しきけたし、自分の力で歩く事も少しは出来たのです。 でもだんだん歩けなくなって、食べられなくってリハビリのつもりで預けた特別老人養護ホームで弱っていきました。
妹も本当によく面倒もみてくれたし、おばたちも手伝ってくれたのだけれど、周りを気にかけていた母の弱り方は一種、自分の意志で選んだ道のように思えました。 意識的にか無意識にか、食べない事を選択したのではないかと。 ほんとうにやせ細って、最後は心臓でした。
もちろんその1年間の間に小刻みに発作があって、衰えていったのですが。

5年以上も自宅でお母さんの世話をして、疲れ果ててホームに預けたと言う人や、ある日、突然心臓麻痺で親をなくし、看病して、納得する時間がほしかったと嘆く人やほんと、さまざまです。なべちゃんのお母さんの1ヶ月半というのは短すぎる気もするけれど、結果からいえば、やはり、子供孝行だったと言えるのでしょうね。誰にもうらみを残さず、おしまれて安らかに他界されたのですもの。
恐いのは自分がその死に方を選択出来ない事です。なべのお母さんのように一人で気丈に凛と生きて、迷惑をかけることもなく病院で死ねたら、どんなにいいだろう。
私の兄は長兄が52歳、次兄が50歳で亡くなりました。
次は私かな?と思った事もあります。でもいまその兄の年を越えようとしています。でも母よりはぜったい先に死んではいけないと思っていました。
晩年つらかった母はやっと安らかに眠れるんだ、という安堵の気持ちがあった事も事実です。
ただ宗教をもたない私にとって母は自分の道徳というか、おって立つところの自分の規範だったような気がします。
母に心配をかけてはいけない、母はどうおもうだろうって。 いつもどこかで思っていた。
夜にふっと母はどうしているだろう、電話しようかな、と思って、改めてあーーもういないんだー、と実感します。
なべちゃんがほんと言っているように、長い歴史のなかで繰り返されてきた事と思うしかない、 そして昔はほんと50歳までも生きられないもっと短い一生だったんだって。
それでも人はいくつも別れを重ねて、強く生きてきたんだ、暮らしを紡いできたんだって身近な人の死で実感出来ました。
確実に自分の番が近づいているんですよね。
達観したわけでもなく、生き急いでいるわけでもないのだけれど、生きていく姿勢が少し変わったのは事実です。
なべちゃんにはもう少し時間が必要なのかもしれないけれど、受け止めていくしかないときっと思える日がくると信じています。

またときどきメール打ちますね。
ではおやすみなさい。

KIMIKO

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8月19日号



「命はさまざま、赤、白、黄色」

 先日、母の50日祭を営み、納骨を済ませてようやく私の中でも、一区切りと言う気持ちになりました。 前回母の入院のことを書いて以来、3ヶ月のご無沙汰になってしまいました。
胆管ガンで入院の際、余命1ヶ月と医師に言われましたが、結局1ヶ月半闘病し、6月19日早朝、帰らぬ人になりました。
84才で亡くなるまで病気らしい病気もせず、ただ、4年前に最愛の夫(私から見れば父ですが)を亡くしてからの一人暮らしは頼りなげで、毎日何回となく電話をし合ったり、訪ねたりしていたこともあり、母の亡くなった後のぽっかりと空いた大きな穴は、埋めがたいものがありました。
頼りなげではあっても、最後まで気丈に生きることをあきらめていなかった母は、結局辞世の言葉も、お別れの言葉も一切無く、最後は昏睡状態のまま静かに息を引き取りました。人間は死んでいくものだという前提を呑み込んで考えると、とても安らかに、苦しまず上手に死んでいったと言えましょう。事実、先日になって私の姉と「おかぁちゃん、さすがに上手に死んだねぇ・・・」と言い合ったものです。
1ヶ月半の闘病は、看病するまわりの家族の負担も程々で、兄弟それぞれが自分の出来うる限りの看護を母にしてやれたと、言い聞かせていると思います。
そうです。人間がみんな死んで行くと言うことを納得すればです。

84才という天寿をまっとうしたればこそ、私は人間は死ななくてはいけないという避けがたい事実を突きつけられたように思いました。
誤解を覚悟の上で言えば、まだ若くしての不慮の死ならば、運命をのろい、不運を嘆いて身をやつせるものを・・・、誰もこの寿命を克服出来ない現実を見せつけられました。
母は私にとって、常に強くて大きな存在だったのに、ある一面その反発力で生きてきたところがある私にとって、母の死は一瞬失速した状態になったような気がしました。

 50日を過ぎた今、去る人日々に疎しとなりながらも、未だに死を受け入れがたく、余り遠くでないであろう自分の死の間際の姿なども連想されて、悪あがきをしている私が居ます。
世の人々はこんな悲しみを数限りなく受け入れて、それでも尚、何気ないように生きているのだと、その隠された切なさに思いがいきます。
「人間って、悲しいものですね〜」と美空ひばりさんがー愛燦々とーという歌の中で歌っています。
おもわず、「あなたも そうだったんですね・・・。そうですよね・・・。」と答えてしまう私です。
そう気づけば、この世の人、もの、すべていとおしく、限りあるほんの今だけの命、みんな仲良く幸せに生きていきたいものと、つくづく思います。
古代の万葉集からこっち、世のはかなさ、時のうつろいを嘆く歌や、達観した言葉が累々と数限りなく続いていることが、今更ながら身に滲みます。
「そうやね、そうなんやね。」と、いにしえの人々の哀切にも、眼が向いてくるというものです。
命はさまざま、赤、白、黄色。
いろいろに咲いて、不条理はあっても、詰まるところみんな公平に、等しく眠りにつくその、愛らしさ。


 久しぶりのガリ版日記ですが、とてつもなく暗い日記になりました。
私の中で、このことを頬かぶりして先に行けなかったものですから、どうぞ、ご容赦下さい。



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5月18日号



「4人部屋」

 母が入院した。今年85才。いたずらな延命になる手術は、兄弟で相談の結果お断りした。
内科病棟の4人部屋にいる。一つ空きベッドがあるが、元気になって退院されたところだ。ここは4人の人達が何らかの病気をかかえながらも、生活している場という感じがする。私が入室するときは、「こんにちわ、おじゃまします。」と声を掛けて入る。
母を散歩に連れて帰ってきた時、「ただ今」と声を掛けると、皆さん「お帰り」と声で迎えて下さる。なんだか仮の家族のような気分だ。
入院して10日も経つと仮家族の出入りも変化して、入室したての頃、いろいろ世話を焼いて下さった隣の人は元気になられて退院された。本人も家族も入院という事態に動転している時に、優しく接してもらうととてもホッとする。お医者さんや看護婦さんはなおのことで、病院のシステムがしっかりして教育が行き届き、気だて良く看護してもらえば、病人の快復も違ってくるというものだ。
 最近よく起こっている医療事故も、いろんなシフトで大勢のスタッフが動いている中での、連絡ミスが目立っているようだ。普通の事務なら、「あ〜ら、違ってた?」というぐらいのミスでも命に関わるので、お医者さんや看護婦さんはほんと、いつも緊張して責任の重い仕事で、ストレスも大変だろうなぁと同情してしまう。
食事前に「今朝の造影剤を流す点滴をしましょう」と看護婦さんが言うので、「食事の後にお願いします」と答え、食事が終わってもなかなか来ないので詰め所に行ってみた。ちょうど夕御飯の休憩時だったようで、先程の看護婦さんがいない。別の人に「食事が終わったので点滴お願いします」と伝えると、点滴の用意をしてベッドに来たのはいいけれど、「あのー、なんの点滴か言ってました?」とあべこべに聞かれた。(おいおい、大丈夫かい?)という気分。しっかり点滴袋に書かれた名前をチェックしてしまった。

 この病院には思い出がある。
3人の子ども達は、みんなここで生まれた。
産婦人科病棟はちょっと複雑なところで、赤ちゃんのおめでたに湧く妊婦と、婦人病に苦しむ患者さんが同室という場合がある。
長男の妊娠8ヶ月の時、切迫早産になりかけて1ヶ月入院したことがある。絶対安静だった私を、同室だった50がらみの女性がよく世話をして下さった。一番古株らしく、先生や看護婦さんにも冗談を言い合う仲のようで、まっ、いわば牢名主のような威厳があった。同室の3人は皆中年以上の婦人病の人達で、若い妊婦に興味津々でよくかわいがってもらった。毎晩のように見舞いに来る若かったダンナもおばちゃん達のアイドルになって、病室をにぎわした。自分たちの病気を忘れて、一緒に若い命が生まれるのを楽しみにして下さっていた。
安定期に入り私は退院し、月満ちて出産で再び入院したとき部屋は違ったが、その牢名主のおばちゃんはまだ入院していた。出産祝いのメロンを切ってその部屋にお裾分けに行き、一緒に喜んでもらったが、もう、その頃は同室していた時のような元気さはなかった。
生後1ヶ月検診に病院に行ったとき、病室にそのおばちゃんの姿はなかった。

 4人部屋の中での、小さな社会。
少し元気な人は、入院間もない慣れない人や弱っている人に、何かと世話をやいてくれる。
義母が脳外科病棟に入院したとき、西日が射し込む窓にブラインドを下ろしたり、お茶をついで下さった手術を控えた若くて元気そうに見えた女性は、義母の手術が成功して退院する頃になっても、集中治療室から出られない様だった。
女性同士の部屋は特に、身の上話に花が咲いたり、見舞いに来る家族の観察、差し入れのお菓子や果物のお裾分けと、ベッドの上を交互に飛び交って、結構密度の深いおつき合いが繰り広げられている。
ほんのひととき、同室になってお互いに慰め合い、励まし合って、またお別れする4人部屋。 旅行に行って旅館やホテルで同室になる人達と違うのは、永遠のお別れが潜むメランコリーな関係があることだろう。



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5月5日号



「行  列」

 自慢やないが、わたしはいらちだ。ん?いらち?これは方言なのかな?
いわゆるせっかちという奴で、待つというのが大の苦手。
この間も事務所で手間取り、駅前のスーパーに駆け込んだ時には閉店間際の時間だった。
飢えた狼どもはわが家から離れたとは言え、練習に出掛ける娘や、私の帰りを今か今かと待っている義母のことを思うと、ほんと、気が気でない状態。
晩御飯のおかずの材料をバッババーっと手当たり次第投げ込み、さてレジへ・・・と。
結構この時間、仕事帰りの主婦や男性などで混んでいて、6台程のレジは各列4、5人づつぐらい並んでいる。

 ここで一番待ち人が少ない列に、何も考えないで並ぶと後悔する。
きれいな花には、トゲがある。  甘い言葉には、ワナがある。
「短い列には、見習いがいる。」
レジを打つ手も、ポッツンポツン。バーコードになって、さほど差は無くなったとはいえ、バーコードシートを裏や表をひっくり返して探す。機械が一度でバーコードを読みとれない。お豆腐などの柔らかものの扱いがこわごわ。特価品の扱いがわからない。全体の段取りがのろい等などで、ベテランに比べると積もり積もった時間差はかなりなもので、慣れた買い物客は懲りて、避けて通るのだ。

 次に並ぶ前にチェックすることは、並んでいる人の買い物の量。
カートに山のように品物を積んでいる人。一つ二つ手に持っているだけの人と、頭数だけでは推計れない。
 そして並んでいる人の中には、母親に付いてきた子供が、お菓子をしっかり握ってレジのカウンターの下で必死に背伸びをしてレジを打って欲しいとダダをこねていたり、お年寄りは財布をおもむろに出して、一枚二枚・・・と札を出し、一つ二つと小銭を出して・・・という具合になったりで、もう、そこはそれ、いろんな要素をふくんだ列なわけで、計算など及ばず運を天に任せて並ぶしかない。

 その日は急いでいるあまり、右、左どちらに並ぼうかとパチパチと計算し究極の判断を した。レジのお姉さんの能力、買い物の量、年齢層など、咄嗟の判断で「左」に並ぶ。
面白いように、選んだ列は順調にはけていく。右の列は何だかモタモタしている。「左」で当たり! さぁ、私の番、早くレジを済ませて帰らなくちゃあ・・・。
と、思いきや、「ちょっと、お待ち下さい。レシートを交換いたします。」ガチャガチャと機械を開けて、ロールを取り落としそうになったり、はずれそうになったり・・・。
「あ〜ぁ!」 人生とはこういうもんだ。
これだけ計算して、考えて、選んだところが、こうだもん。
○教訓  「急がば回れ」
小賢しく、目先のことでチョコチョコ駆け回るな、泰然自若としておれ・・・とでも解釈しておこう。
だがしかし、根がいらちなもんでなかなか泰然としておれない。
銀行のATMの順番、トイレの順番などもフォーク方式とかいう、みんな一列に並んで、順次空いたところにそれぞれが入るという並び方になって来て、かなりスムースになり、 いらぬ心配をしないで済むようになった。
なんたらの法則(なんや?度忘れ!)というのがあって、同じぐらいの長さの列があったとする。「あっちの方が早そう・・・」と列を変わると必ずと言っていいほど、以前の列の方が早く進むという法則があるそうだ。

 事務所のある南森町は中小のビルが林立した、商業とビジネス混在地域で、月末ともなればS銀行の混み具合はかなりなもの。
窓口のカウンターが10ぐらいあり、ATMも11機並んでいる。営業時間内だけのATMもカウンターの横に2機ある。
○ここで問題。
ATM11機に55人並んでいるのと、2機に7人並んでいるのとでは、あなたはどちらが早いと思って並びますか?  
○答え。
どちらも一緒。運が良ければ、あなたが並んだ方が早い。

 私は例によって、あたふたと銀行に駆け込み、正面のATMに並ぶ溢れる列を見て恐れをなし、目立たないカウンター横の2機に並んでいる7人の後に付いた。こっちは穴場と読んだのだ。ところがそのうちの一人がやたらと振り込みばかり何件も続けている。
ATMでの振り込みは、相手先の銀行名、支店名、振り込み番号、金額など、カタカナや数字の打ち込みで、冷や汗がでるぐらい手間取る。「オーッノーッ!」
2機の列は、そんなお客がいると、モロ、後ろに響く。11機では、手間取る人もいるが、早い人もいる。大人数の方が、平均化されて影響は少ない。
がしかし、運が良ければ、2機、7人の方が圧倒的に早く終わるということもある。

○教訓
こんな取るに足らない行列ぐらいのことで、あっちが良かった、こっちが良かったなんて 言うのはみっともない。もっと泰然自若としていようではないか。
でも、みんな気にしていないようで、けっこーチラチラ横の列見て、いらついているのよねん?



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4月20日号



「いろんな葉っぱ」

    桂枝雀さんが亡くなった。
自分で自分に折り合うというのは、なかなかうまく行かないんやなぁ・・・と、彼の自死を聞いて、思ったりします。 才能を持てば持つほど、ボールは高く投げあげられて、コントロールが難しくなるんでしょうか? そう言えば、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成氏と、人も羨む才能を持ちながら、いや、持っている故なのか、さっさと木の葉を自分で散らして逝ってしまっています。
こんな著名な人達でなくとも、我々凡人も人それぞれ大なり小なり、「生・老・病・死」の悩みを抱えて生きています。

 そんな折り、テレビで絵本の話がニュースになっていました。
アメリカの哲学者が作った「葉っぱのフレディ」という絵本が、リストラを受けそうな中年ビジネスマンによく売れているということでした。
今朝、冷やかしにちょっと本屋さんをのぞいて、パラパラ読んでみました。簡単な絵と写真の、五分も有れば読んでしまえる絵本です。
葉っぱのフレディが春に芽吹いて、夏、子供や年寄りに木陰を作って喜んでもらい、秋になって赤く色づき、ぼつぼつお別れの時が近づいてきたんだよと、物知りの葉っぱ、ダニエルに教えられ、最後は白く積もる雪の上にはらりと落ちていく・・・。
葉っぱの一年を綴った淡々とした絵本なのに、読み終わってさっさと元の所に戻すのが何だか惜しいような、別れがたさが残る絵本です。
もう一度、じっくり眺めて読んでみたい・・・。
ケチな私が1575円払って、胸に抱えて出てきました。

 作者のメッセージとしてこの絵本を、死別の悲しみに直面した子ども達と、死について的確な説明ができない大人達、死と無縁の青春を謳歌している若者達へ贈る・・・とありました。
実際今、85才の実家の母、76才の義母の、徐々に徐々に老いていく姿を目の前で見ている私とって、「老いていくこと」や「死を迎えること」がとても怖く残酷なことのようで、その運命を受け入れ難い思いでいるのです。 無心で生きて死んで行けない人間は、いつも「生きること」、「死ぬこと」を問い続けながら、苦しんでいると言えましょう。
人間はいつか自分がいなくなることを知っているのです。
創造主は、余計な知恵を人間に下さったものだと常々思います。
この世のあらゆる権力を手に入れた秦の始皇帝が、不老長寿の薬を世界中に求めて現世に永らえる方法を探し続け、かなわぬとなれば、自分の死と共におびただしい数の兵馬を伴に地中に埋めたことの、あくなき生への欲望と死の恐怖・・・。
そんな人間が宗教を考え出したのも、ムリからぬことでありましょう。
絵本では、こう言っています。

《 葉っぱのフレディは、物知りダニエルに尋ねます。
「僕は生まれてきて良かったのだろうか?」
ダニエルは、深くうなずきました。
「僕らは春から冬までの間、ほんとうによく働いたし、よく遊んだね。
まわりには月や太陽や星がいた。
雨や風もいた。
人間に木かげを作ったり、秋には鮮やかに紅葉して、
みんなの目を楽しませたりもしたよね。
それは、どんなに楽しかったことだろう。
それは、どんなに幸せだったことだろう。」》

「これでいいんだ」、「これで良かったんだよ」と、今の自分をありのままに認めて、納得させてくれるものがこの絵本のダニエルの言葉にあります。自分の来し方を省みて空しく思う中年族に、優しく語りかけてくれます。リストラにおののくビジネス街の中年に、「君は今までよく頑張ってきたんじゃないか。よくやってきたよ!」と励ましてくれそうです。
木の幹から外れるのは、そんなに怖いことじゃないよ、風に乗って舞えばいいのさ・・。
この絵本は、考えすぎる葉っぱにに、失意の葉っぱに、死を恐れる葉っぱに、肩の力を抜いてありのまま、自然体で行こうよ・・・と語っているようです。

落ちた葉っぱのフレディは、土にとけ込んで、木を育てる力になります。
がしかし、車に踏みつけられたり、切り倒されたり、爆弾で焼け焦がされたりと無念の死を迎える葉っぱも、この世には数多くあります。この葉っぱたちは、どうすればいいの?と、物知りダニエルに聞いてみたい気持ちもありますが・・・。



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