住吉区の主な名所・旧跡


あびこ観音

観音宗総本山 吾彦観音寺
【あびこ山観音寺物語】

住吉区我孫子4丁目1-20
地下鉄御堂筋線 「あびこ」下車西へ約300m
JR阪和線「我孫子町」下車東南へ約500m

江戸時代には朝廷、将軍家、諸国の大名、武将の観音信仰に支えられ、境内に36の支院があったと いわれ、一時は隆盛をきわめましたが、明治14年の火災で多くの寺宝と共に焼失してしまいました。
明治23年に再建され、現在に至っています。「聖観音」が開帳される節分や、年越しの大法会には今でも街の様相が一変するぐらい大いに賑わっています。
35年ぐらい前までは地下鉄が開通していなくて、JR(旧国鉄)の「我孫子町」駅はホームを節分の期間だけ木造で増設し、臨時改札口も設けるなど、今では考えられないほどのにぎわいでした。
境内には樹齢800年を越える楠の大木もあり、その歴史が感じられます。
本堂の向かって右側には、釈迦の弟子、十六羅漢の一人であるビンズル尊者で「べんずいさん」と慕われている座像があり、自分の病気のある部分をなでると良くなるという伝えで、皆になでられ、ぴかぴかに光っています。
また、本堂の背後には「西国三十三カ所」めぐりがここ一カ所でできる三十三種の観音像があります。
そして、大阪人が“うまくいく巡り合わせ”のことを“マンがいい”と言いますが(上げマン、下げマンはこの意味)この“マン”を良くしてくれる「マン地蔵」があり、商売繁盛も含めて幸運を願う人々の信仰を集めています。

商売繁盛のお札を
拝みたい






あびこ山観音寺物語

あびこ山観音寺は、わが国でも最も古い時代に創建された仏閣です。
西暦500年頃、「我孫子」地方は松青く、砂白く、波静かな浜辺で、ここに「依網の吾彦」(よさみのあびこ)という大和朝廷とのつながりのある大きな勢力を持った一族がいました。漁業や農業をしながら、朝鮮の国々とも交易を行い、大陸からも多くの帰化人も受け入れ、新しい文化も次々わたってきて、当時としては最も進んだ国際地域であったと思われます。
交易の縁で、「百済の聖明王」から、「任那の牟婁」(みまなのむろ)という地のお寺にあった身の丈一寸八分の小さな観音像を「膳臣巴提便」(かしわでのおみはてび)という使者にことづけられ、我孫子の人々に届けられ、さっそくささやかなお堂が建てられました。
六〇年ほどたった西暦六〇〇年の夏に聖徳太子がこの我孫子浦を訪れた際、雲間から金色の光が差し込み、そこに観音様の姿が拝まれたので、聖徳太子は、立派なお寺を建てるように人々に命じ、資金を提供しました。
12年の工事期間を経て、「吾彦山観音寺」が建てられました。
130年ほどたった天平17年の秋、(西暦800年頃)聖武天皇が難波の宮で重い病気にかかられた時に、大仏殿を建てた「行基上人」が“むかし聖明王から送られてきた観音様におすがりするよう”といわれ、ご祈祷により、天皇の病気が良くなりました。それから、代々の天皇や源氏、平家の武将、楠正成や正行、足利将軍はじめ、多くの人々から“災難をふせぎ、幸せをさづけて下さる観音様”としてあがめられました。
ところが、「応仁の乱」が起き、合戦続きとなったため、難を免れて、高野山の聖無動院へ観音像を遷されました。


話は変わって、「太閤秀吉」が小田原城を攻め落とした時、城主「北条氏直」に仕えていた「東三郎左エ門」という武士が、氏直と共に高野山の高室院にのがれ、名を「快敬」とあらため坊さまになりました。これを知った「徳川家康」は、自分が人質になっていたころ、この三郎左に世話になったことを思いだし、駿府(今の静岡)に来るように使いをよこしました。しかし快敬は山を下りないので、その子「東助左エ門」を五百石の侍にとりたてました。
一方、快敬は、聖無動院の観音像が、あびこ山のご本尊であることを知り、聖無動院からおうけして、あびこの観音寺にお供しました。そして村人に頼まれるまま、観音寺の和尚となりました。
ほどなく、「大阪夏の陣」の戦争が始まり、家康は大阪城を攻めたが真田幸村の軍勢に追われ、助左エ門と夢中で逃げ込んだのがあびこ山観音寺でした。そこに思いがけず快敬和尚とめぐりあい、本堂の観音様の須弥壇に隠してもらい、難をのがれました。
これもひとえに観音様の御守護と家康は大喜び、お寺を立派に立て直し、助左エ門を一千石どりの旗本にし、家康の子頼宣(よりのぶ)づきにしました。頼宣は後に紀州五十五万石の殿様になり、助左エ門も紀州にお供しました。しかしそののち父の快敬がなくなり、助左エ門は家を息子にゆずって自分はあびこ寺の和尚をつぎ、「盛長上人」とうやまわれるようになりました。そして、皇室、徳川家はもちろん諸国の大名たちの信仰もあつく、日本有数の観音霊場としてその名が全国にきこえるようになりました。

明治になって、快敬法主以来連綿東氏の血統を受け継ぐ榮基上人が、苦労を重ねながら寺門の興隆に献身的な努力を傾けて中興の法主といわれました。
現在、日本最古の伝統を誇る「節分厄除大法会」に詣でられる大群参の数は非常に多く、「厄除開運、諸願成就」の霊験あらたかな「観音様」としてますます信仰が盛んになっています。

(おわり)

正式版「あびこ山観音寺物語」を一部アレンジさせていただいています。



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