●大阪市住吉区の「我孫子」について

■古代編

我孫子台地は石器時代からの居住地

住吉古代地形図で見ていただいてもわかるように古代、住吉区は海に面していました。
上町、我孫子台地といって、大阪平野の中にあって石器時代より標高15m程度の台地として存在していました。
現在はビルや家が建ち並び、町の高低差はあまり感じないのですが、改めて調べてみると、大阪湾に向かって坂が結構下っています。
「我孫子」の少し西付近には、山の内遺跡、遠里小野遺跡など石器時代から弥生時代に至る複合遺跡が昭和の初めに発見され、 土器、石器などが多数出土しています。また付近の田地からも農作業中に多くの石器や、土器が発見されています。


「あびこ」さんの歴史上最初の登場

このあたりに、古代紀元の初めごろより「依羅吾彦」(よさみのあびこ)一族が住んでいました。
よさみとは「寄網」、あびことは「網曳」から変化したものだそうです。網で魚や鳥を捕り暮らしていたと思われます。
彼らは大きな勢力を持っており、大和朝廷とのつながりが強かったようです。住吉津を通じ、朝鮮半島との交易により大陸の文化も伝わっていました。帰化人も多く、当時の日本の中で最も進んだ国際交流地域であったとのことです。
地下鉄あびこ駅から東南東へ歩いて10分程度のところに大依羅神社があります。創建は紀元200年頃とされ、由緒略記によれば、神功皇后(この方が卑弥呼であったとする説もあり)が新羅に遠征した時に、無事を祈って、依羅吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)が祖先の建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ)<第9代開化天皇の第4皇子・崇神天皇の弟>を主神に住吉三神を合祀したそうです。以来、依羅吾彦一族は神主として、歴代天皇に崇敬されたということです。
大依羅神社の名は、古事記、日本書紀にも書かれており、また依羅吾彦の名は続日本紀、姓氏録にも記録されていて、南北朝の戦乱で滅亡するまで大きな勢力を持ち続けていたようです。
この依羅吾彦男垂見が歴史に登場する最初の「あびこ」さんです。

また、「日本書紀」の巻十一仁徳天皇43年9月条には、依網屯倉阿弭古が珍しい鳥を捕まえたので天皇に献上した事が書かれています。
天皇が百済の国から連れてきた酒君を呼び、改めさせたところ、「この鳥は百済では多く見られる鳥で「倶知」といって飼い慣らすと他の鳥を捕まえてくる」ということで、すなわち「鷹」でありました。
その後、酒君に預け訓練し、百舌鳥野(現在も百舌鳥<もず>という地名あり、仁徳陵のあるところ)にて鷹を放し、数十の雉を捕まえたということが書かれています。
ここで言う、屯倉(みやけ)とは朝廷直轄の御料地でその管理監督にあたっていたのがこの、依網屯倉阿弭古と思われます。
よって、この阿弭古、吾彦一族が住んでいた地域を我孫子と名付けられたようです。(まだ漢字が使われていない時代のため、「あひこ」という音だけが伝わり、当て字としていろいろなあびこの漢字が登場してくると考えられます。)
この後、鷹を繁殖させ、鷹の訓練を専門とする鷹甘部(たかかいべ)という集団を組織しました。この集団が住んだ「鷹合」という地名が今でも我孫子の近くにあります。
また、このころは地続きであった松原市には三宅という地名も残っており、そこには屯倉神社があり、このあたりが依網屯倉の倉庫があった地点と言われています。

旧我孫子村の中に「あびこの観音さん」として親しまれている「総本山吾彦観音寺」があります。
寺伝<あびこ山観音寺物語>によれば、本堂に祀れている聖観音像は百済の聖明王から贈られたもので(仏教伝来とされる530年頃)、最初人々は、この一寸八分の観音さまのために小さなお堂を建てていました。
ある日(600年頃)聖徳太子が我孫子浦に出向いた時に雲の間に金色の光が射し、観音様の姿が拝まれ、感激した聖徳太子がお寺の創建を命じ、費用を与え、12年をかけて大きなお寺を建立したそうです。

この時期と前後するかも知れませんが、我孫子台地には我孫子古墳群といわれ、多くの塚が存在していました。有力な豪族がこの地に住んでいたという証拠でもあるわけです。
明治の初期まではいくつかが残っていたのですが、この地の黄土の質がよく、土商が建築材料として多くを掘り出してしまったそうです。

この後は調査中!・・・・


■中世編
堺の豪商に我孫子屋があった
我孫子村近辺の田地を大徳寺に寄進した我孫子屋次郎の記録

文明3年(1471)、道金と智位の両名は我孫子屋次郎の遺言に従ってその遺領「摂津国住吉郡五ヶ庄内」に散在する田地を京都大徳寺の塔頭の一つ養徳院に寄進したという記録が残っています。 我孫子屋次郎は当時、堺の豪商我孫子屋の一族でありますが、次郎には妻子がなかったため財産を寄進したものと思えます。 次郎は我孫子村近辺の農民に積極的に高利貸活動を行い、その課程で集積したものと言われています。このときの田地の近くに「金屋」の記述があり、この地区での鍛冶屋、鋳物師がこの地にいたことの最初の資料です。
<大阪府の地名 1/平凡社 より>


我孫子五箇荘は信長や秀吉の鉄砲工場だった!
我孫子に住んだ河内鋳物師達

五箇荘は、現在の大阪市住吉区我孫子を中心に、苅田、杉本、庭井、から堺市の浅香山、花田付近にかけての荘園でした。
15世紀の初めごろから、金屋が存在し、金属手工業の存在が確認できますが、戦国期に入ると当時、日本の最先端の技術をを持っていた丹南や湊村(現 堺市内)から多くの河内鋳物師、鍛冶が五箇荘我孫子に集められ、丹南をしのいで発展しました。
それは、織田信長と堺の町衆との紛争を解決し、信長から五箇荘の代官職を任命された堺の豪商であり、茶人として有名な今井宗久の力でした。
宗久は我孫子に河内鋳物師を移住、集中させ、独占的に掌握する体制を強引に作りました。これは、需要が激増しだした鉄砲を製造する工場を築こうとしたためです。
鉄砲製造集団を統轄し、火薬類を取り扱い、それを織田信長の軍隊に供給することによって巨富を築きました。



今井宗久書状(左)
「宗久書札留」(今井耕一氏蔵)より、この書状は、永禄13年(1570)2月17日に、今井宗久が和泉国湊村惣中に対し、同村内の吹屋を我孫子五箇荘へ移住させるよう命じたもの、しかしすぐに応じなかったので、宗久は織田信長との関係を述べながら催促している。

当時の鉄砲(右)
堺の鉄砲製造技術は堺生まれの鍛工の芝辻清右衛門が根来寺の僧兵からその製法を学んだという説がある。しかし鉄砲の製造技術が飛躍的に発達したのは今井宗久が織田信長と結びついてからであった。
<図説 大阪府の歴史/河出書房新社 より>


この後は調査中!・・・・

写真関係は現在取材中です、もう少々お待ち下さい。


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